金沢の坂道コラム

はじめに地名ありき - 大瀧坂

地蔵と竹林㊧が歴史を語る

地蔵と竹林㊧が歴史を語る


坂標に、かつて辰巳用水が滝のように脇を流れていた―とある金沢市の大瀧坂。小立野通り錦町交差点から三口新町に下りる。坂の両脇どちらにも滝はない。同じ辰巳用水の流れを引く坂道に「美術の小径」(県立美術館裏)がある。その脇をゴーゴー音をたてる様を思い起こしながら、大瀧坂を上り下りしてみた。水流を想像するのは難しい。…ン⁉ 坂名は別のところから来ているのではないか―。

6本の滝


辰巳用水から6本の滝が落ちる『天保五年辰巳用水長巻図』(県立歴史博物館蔵)

辰巳用水から6本の滝が落ちる『天保五年辰巳用水長巻図』(県立歴史博物館蔵)


絵図から当たることにする。『加賀辰巳用水―辰巳ダム関係文化財等調査報告書―』(1983年)の付録に何枚かの絵巻・絵図がある。中に写実性に優れているという点で調査団長お墨付きの「天保五年(1834年)辰巳用水長巻図」がある。用水そのものが機密事項であるため、一次史料がまったく遺されていない中での貴重な手がかりである。

その一部、現在の辰巳用水遊歩道のうち加賀藩の火薬製造工場である塩硝蔵(東)から湯涌街道の上野板橋(錦町交差点付近・西)までを見る。右に用水沿いの道を柵で遮断した塩硝蔵、中央に涌波村、左に三口村が描かれ、間を6本の滝が流れ落ちている。このうち左端の滝が現在の大瀧坂に最も近いことになる。距離は現在の地図と照合すると75mほど。滝は坂の脇を流れていたのではなく、少し離れた地点にあったことがうかがわれる。

3代藩主前田利常の命を受け、板屋兵四郎が用水を開削したのは1632年(寛永9)とされている。長巻図はこれより200年余を経て描かれたものになるが、「殿様用水」とも呼ばれ何びとも容易に触ることのできなかった“御上水”のこと、形態には現在に至るまで大きな変化はなかった。開削の翌年には余水を使った新田開発が藩命で出され、それまでの笠舞村(笠舞)、大桑村(大桑町の一部)に加え新たに三口新村(三口新町)、涌波新村(涌波)が村立てした。藩は城中、城下の水の確保だけでなく、当初から新田開発を目論んでいた。

「滝」の付く小字

荒地が田地に変わっていく過程で必要になるのは地名である。地形や特徴、目印となるものに名を付け、それが村の小字(小名)になる。地名研究家室井浩一氏(82)=高尾2丁目=の『加能地名総覧』によると、三口新には「大滝」に加え「小滝」があり、涌波新にも「小滝」がある。『角川日本地名大辞典』や『崎浦郷土史』など史資料にも「大滝(瀧)」、「小滝(瀧)」が掲載されており、ほかに「一番滝」~「四番滝」「五番滝高」、「のむ滝」など滝そのものをうたったものもある。

用水から落ちる滝と、新開地に残る地名になんらかの関係があるのではないか―。大瀧坂の由来に迫るべく「塩硝の道検証委員会」会長の谷内賢正さん(92)=涌波1丁目=に意見を求めた。返ってきたのは「ある」との答え。絵図を指差しながら「小立野台地と下部の笠舞台地を結ぶ交流があった。上野板橋から三口村へ下りる道はその一つ。段丘を伝い、途中からは滝が眺められる」。周辺は大瀧地区であり、「坂道が大瀧坂と呼ばれるのは自然」という。


坂下の田地は住宅地に変わった

坂下の田地は住宅地に変わった


水門がある用水取り入れ口。かつてここから滝が落ちていた

水門がある用水取り入れ口。かつてここから滝が落ちていた


用水が先か坂が先か


谷内さんはさらに「辰巳用水が9カ月で完成したというのは藩のウソ。実際には少なくとも5、6年かかっている」とする。長年、県の土木技師を務めた経験から来ているが、1698年(元禄11)の涌波新村百姓四郎兵衛が新開の経緯について説明した文書(改作所旧記)や、1740年(元文5)の十村役田井村喜兵衛が藩当局からの問い合わせに答えた文書(加州郡方旧記)の裏付けがある。完成の年は伝えられるより3年早い「寛永6年」となっているのだ。先端技術を駆使したとはいえ、隧道掘削という難工事があったことも考えるとかなり早くから着手されていたとみていいだろう。

用水ができ村ができ坂ができた。いや、坂が用水より先だったかもしれない。いずれにしろ一朝一夕で成る話ではない。多くの人の営みと月日があってこその往来=坂道だったのだ。坂の途中、立ち止まって目を上げる。加賀-越中に連なる山々を背景にした様はまさに絶景だったに違いない。6本の滝は今も用水として使われている。気候変動による現代の水争い「水クライシス」が叫ばれる中、永遠の流れを祈りたいと思う。

参考資料

  • 『加賀 辰巳用水-辰巳ダム関係文化財等調査報告書-』辰巳ダム関係文化財等調査団、高堀勝喜編、1983年
  • 『特別名勝 兼六園-その歴史と文化-』特別名勝兼六園編集委員会、橋本確文堂、1997年
  • 『崎浦郷土史』北田八州治、1971年
  • 『涌波の歴史あれこれ』杉谷一雄、1981年
  • 『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川日本地名大辞典編集委員会、角川書店、1981年

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