金沢の坂道コラム

八坂や 月にむらくも 十三夜

八坂

八坂


坂学会という「坂道学」を多面的にとらえ解きおこす先進的なグループがある。昨秋某日、北陸新幹線ブームにわく金沢観光の隙間を縫って、会員5氏が翌日の研修視察「巡検」に備え先行到着した。当初に予定した日程は予約が難航して流れ「それでも」の思いから特別の日程を組んで来沢した面々だけに、前夜祭のオプションとして家内と案内した「兼六園十一坂」を旺盛な好奇心丸出しに精力的に歩き回った。

本稿タイトルの駄句は、暗闇が増した夕、兼六園の外郭・八坂(はっさか)で一行とわたしたち夫婦が別れたあと坂を下りながら詠んだものである。見上げた空に十三夜の月がいた。坂の下、松山寺(しょうざんじ)の山門がその下にあった。山門の瓦は叢雲(むらくも)をよけて射す月明かりのなかで黒光りに光った。

後ろ髪を引かれる思いだったのだろう、帰郷した面々の数人から「あの八坂が印象的だった」との便りをいただいた。すでに暗く、見ることのできなかった八坂、別れ、そして十三夜。後日、リピートして八坂を確かめ、堪能した人もいた。この春にもう一度来るという人もいる。私たち夫婦にとっても印象深い、あの夜の八坂の月だった。


十三夜(2015.10.25)

十三夜(2015.10.25)


ロマンのある坂


東向きの台地にある八坂はうってつけの観月の名所といえる。長さ127m、高低差24m、斜度13度。月の動きに合わせて石段を上り下りすれば、松山寺の山門と座禅堂、杉木立ちの上にさまざまな角度からの月が楽しめる。休憩用のベンチもある。遠くに臥竜山卯辰山、その間に浅野川に向かいゆっくり下る町の灯―。


「景観元年」といわれた年があった。1990年(平成2)、金沢市の前市長山出保氏が市長に初当選。前年に全国に先駆けて市景観条例を制定していたこともあって、「景観」は新市政の目玉になりその後の山出市政のバックボーンにもなった。手始めにいくつかの坂道の改修・修景が行われ、八坂もその一つに組み込まれた。当時、坂上の料理茶屋「兼見御亭」の社長だった馬場吉晃さん(76)=現会長=は東兼六町の町会長として市との折衝にあたった。手もとに市側が示した数点の絵コンテがある。


町並みの向こうに卯辰山を望む

町並みの向こうに卯辰山を望む


 


そのうちの一枚。松山寺に沿う石段に屋根がついている。山腹に建つ奈良・長谷寺の「登廊」に倣って馬場さんが注文、これに応じて市が描いたものだが、屋根つきはご破算になった。メンテナンスにお金がかかる、というのが理由。設計はパスしたが、予算段階でクレームがついた。もともと、最初に馬場さんに改修案が持ち込まれたときは、市は砂利道をコンクリート舗装するくらいにしか考えていなかった。それを一度は蹴ってここまでもってきた。単に上り下りするだけの通り道ならいらない、ロマンのある坂に、というのが馬場さんの願いだった。


松山寺山門に寄り添う上り口

松山寺山門に寄り添う上り口


13度の斜度


代わりに、市は坂の中央に木を植えることを提案してきた。馬場さんはこれを断り、傾斜をできるだけ緩やかにすることで折れた。真ん中に木を植えたのでは救急車が通れない。車が通れる限界に近い13度の斜度はこうして生まれた。

松山寺の塀はそれまではブロック塀だった。この寺を菩提寺とする旧加賀八家・横山家に働きかけて白壁と石垣のお屋敷風に変えてもらった。寺の裏の崖を削って四阿(あずまや)を、と土地所有者の国(坂上の金沢医療センターの前身・国立金沢病院)にかけ合ったがこれは無理だった。―馬場さんの回想である。


小立野段丘の裾を縫う斜度13度の景観

小立野段丘の裾を縫う斜度13度の景観


わたしの「八坂説」


八坂はどうして八坂なのか。この大命題に入ろう。八坂はもと宝幢寺坂(ほうどうじざか)と呼ばれていた。藩政期中ごろまで、金沢医療センターの西端に宝幢寺があり、その門前の坂を宝幢寺坂といった。八坂はこの坂の下に広がる町「八坂」を含めた一帯の総称で、その一角にある永福寺(ようふくじ)から材木町に出る川岸の小さな坂を八坂とも呼んだことからいつのまにか宝幢寺坂が八坂になった。坂の名前が変わった一番の理由は宝幢寺がなくなったことにある。かつて小立野台へ上る樵道(きこりみち)が何本もあったことから名づけられた八坂の地名は、一本に集約された坂を駆け上るように、時を置かずして宝幢寺坂を八坂に変えた。


永福寺前の路地坂

永福寺前の路地坂


―というのがわたしの「八坂説」である。地誌を調べる手がかりとなる亀の尾の記、加能郷土辞彙、金澤古蹟志、温知叢誌、この4大史料を強引にひとまとめにして推測した。なぜなら4誌は八坂の説明について微妙にニュアンスを異にしているからである。


4大史料に時の移ろい

江戸後期の加賀藩士柴野美啓の筆になると伝えられる亀の尾の記は「八坂は永福寺辺りから材木町に出るまでの一帯の総称」であり「宝幢寺坂と併称すべきものではない」とし、金澤古蹟志は江戸中期の儒学者青地礼幹の加邦録を引用、「宝幢寺坂を指して八坂というのは誤りで、八坂は宝幢寺坂から材木町へ出る川岸の小さな坂をいう」としている。ともに八坂と宝幢寺坂は別の存在であり、明確に区別すべきものであるという。

これに対し温知叢誌は「八坂は八坂町から材木町2丁目に出る小坂路」としながらも宝幢寺坂を「一般には八坂と併称している」とし、加能郷土辞彙は「八坂は町名であるが、坂名としては宝幢寺坂の名が廃れて八坂と呼ぶようになっている」とする。ともに別の存在であることを認めたうえで、温知叢誌は現在の八坂が二つの名前で呼ばれていたこと、加能郷土辞彙はその二つの名前のうちの宝幢寺坂が消えたことを説明している。4誌を通し、総称→町名→坂名の「時の流れ」が読み取れるのだ。

町名「八坂」と坂名「八坂」が並立していた。さらに総称としての「八坂」があり、総称と町名の境界がはっきりしていなかった。その結果、小坂路としての八坂が町名「八坂」と混同され、宝幢寺が移転(奥村氏の邸地となったため1696年=元禄9=、小立野2丁目=旧上野町へ)したのを機に宝幢寺坂にとって代わった。これが“駆け上った”理由である。

地名と坂との相関関係

4誌間の“微妙さ”を整理統合したものがわたしの八坂説だ。それぞれの出版時を頭文字だけをとって年代(1900)順に並べると、①亀32②加56③金76④温99、とほぼ20年間隔になっている。つまり、出版時点で見る限り60-80年ほどの間に呼称が揺れ動き、固まったことになる。加能郷土辞彙をまとめた日置謙氏は、亀の尾の記と、史家森田平次氏の手になる金澤古蹟志の校訂・解説を担当している。この3誌は微妙に絡み合っている、とみていいだろう。温知叢誌の氏家栄太郎氏は「足で書いた」史家として知られている。

便宜的な呼び名であった地名が特定の区域を示す町名になり、最後に坂名として残った。また、坂名が町名誕生につながった逆の例もある。地名と坂との相関関係―。新たな探求テーマがみつかった。

参考文献

  • 『サカロジー-金沢の坂』国本昭二 時鐘舎 2007
  • 『石川県史 第3篇 藩治時代(下)』石川県 石川県図書館協会復刻 1974

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