金沢の坂道コラム

<番外編>「昔の木曽坂」について考える

現在の木曽坂

現在の木曽坂


木曽坂と裏門坂は小立野丘陵の谷あいにある。渓流に沿うように上るのが車も通る木曽坂、左へ上る片側石段の坂が宝円寺(創建1583年=天正11)の墓地につながる裏門坂―というのが現在の姿である。そんな中で、木曽坂の坂標に「その一部は宝円寺の裏門の坂なので裏門坂ともいわれていた」とある。“一部”とされた裏門坂を「昔の木曽坂」(小立野婦人学級文集『いし曳』)と呼ぶ人がいる。裏門坂が藩政期からあり、木曽坂が昭和の坂であることがあいまいになっている。

表参道

初冬の一日、周辺を歩いた。『いし曳』によると、昔の木曽坂は麓にある永福寺の裏にあるという。前は現在の木曽坂、裏には裏門坂が通っている。「昔の」と付くからには裏に別の坂があるのかと思い周りを探した。裏門坂のほかに坂はない。痕跡らしいものもない。少し上にある石段のことではないか、という人がいた。石段は木曽坂の枝線であるみどり坂とさらに上にある安藤坂との中間にあって宝円寺の境内につながっている。ただ、永福寺からは100mほども離れていて「裏」というには少々遠い。

石段を下りてくる人に出会った。「昔の木曽坂をご存じですか?」と尋ねてみた。「あぁ、すぐそこですよ」。60代と思しきその男性に案内されたのは木曽坂を少し戻ったところにあるみどり坂だった。「この上です」。指さされた方向に裏門坂がある。みどり坂と裏門坂は坂上でつながっている。やはり「昔の木曽坂」は裏門坂のことをいうようだ。“裏門”の坂はかつて宝円寺の表参道だった。宝暦の大火(1759年)で類焼、山門が裏側へ移されたために生じた呼び名である。


宝円寺の裏口

宝円寺の裏口


揺れる


史料をひもといてみる。藩政後期-明治期前半の様子がうかがえる金澤古蹟志、稿本金沢市史には裏門坂は出てくるが、木曽坂は出てこない。木曽坂は明治期の姿を映した皇国地誌、加能郷土辞彙にようやく登場する。

皇国地誌は「木曽町」の項で「下百々女木町(現宝町)より西に入る(筆者注・下る)」と書く。現在の木曽坂を指すが、木曽坂という名はなく裏門坂の存在にも触れていない。裏門坂の呼び名は明治4年の戸籍編成で廃され、木曽町の名で町建てが行われたからである。

加能郷土辞彙は裏門坂の旧名は「寶圓寺谷」であるとし、その「風致が信濃の木曽路に似ているといふので木曽坂と雅名せられた」と、総称宝円寺谷となるところを旧名裏門坂、雅名木曽坂に振り分けている。宝円寺谷は木曽谷の旧名で、その範囲は裏門坂周辺に限られていたと思われる。当時の木曽坂は樵道だった。拡幅される昭和の初めまでは「岐岨路」と皮肉られた山地の間道だった。

大正期の温知叢誌には木曽坂の表記はなく「木曽谷」がある。その谷が「宝円寺の裏門に通じていることで裏門坂ともいう」とする。皇国地誌の影響が見え、加能郷土辞彙の記述にも沿っている。昭和-平成期の地誌である『小立野校下の歴史』、『さきうら(崎浦)』になると、木曽坂について説明するだけで裏門坂には触れていない。裏門坂を「昔の木曽坂」と呼ぶことと共通するものがある。

これら史料から見えてくるのは「裏門坂」→「寶圓寺谷」→「木曽谷」→「木曽坂」という流れである。

高揚感

由来の記述が変化するのは同じ小立野丘陵の八坂に似ている。八坂は樵道がいくつもあったことから名付けられた一帯の総称で、現在の八坂はその中の一つ・宝幢寺坂と呼ばれていた。時の移ろいを経て、宝幢寺が移転したことで宝幢寺坂は八坂になる。木曽谷に目を転じると、拓かれ整いゆく谷あいの様子は人びとに高揚感をもたらしたことだろう。裏門坂は木曽坂ができたことで呑み込まれ「昔の」ものになる。

丘陵に立つと、谷を挟んで紫錦台中学校の校舎が見える。指呼の間といっていい距離である。この谷に藩政期、道らしい道は裏門坂しかなかった。木曽坂ができ、谷あいに二つの坂ができたことが人びとの思いに作用した。人情の自然―そんな想いに駆られる風景である。揺れ動く坂名の一つの過程なのかもしれない。ならば、裏門坂は裏門坂で、木曽坂は木曽坂でいいのではないか。


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