かつては表参道だった ― 裏門坂今昔
小立野台の名刹、宝円寺(金沢市宝町)。建立した加賀藩開祖前田利家の自画像を納めた御影堂のある墓所を抜けると、裏手に小さな石段が下りている。石段は人ひとりがようやく通ることのできる民家脇の通路につながり、その先の木立のなかにひっそりと坂道がある。いまはすっかりその名にふさわしくなった裏門坂である。
大改修で山門移転
裏門坂はかつて表参道だった。宝円寺の山門が坂の上にそびえ、山門は金沢城の石川門と向かい合っていた。参詣の人たちは最高斜度15度(国本昭二著『サカロジー』より)の急坂を上り、遠くの日本海を眺めて動悸を静めた。
なぜ、山門は裏から表へ移されたのだろうか。宝円寺の山号は藩主の帰依寺院にふさわしく「護国山」である。城の東南にあり「本城の石川門と寺門を相対せしめたるに因り」(稿本金澤市史)と山号の由来が伝わる通り、寺は当初、城の弱点である搦め手の防御を担っていた。その後、天徳院など前田家ゆかりの寺院がこれに加わり、背後地の防衛線は強化される。
台地の開発が進むなかで、表門は町に君臨する形で台奥に向かって口を開ける。大雨のたびに山ぬけ(崩壊)する谷を避けたこともあるだろう。1669年(寛文9)、5代綱紀による大改修で山門は馬坂口の現在地に移転、北陸の日光(東照宮)とうたわれた伽藍が現出する。1868年(明治元)に「火を失し(中略)伽藍は悉く焼亡」(稿本金澤市史)するまで、その栄華は200年に及ぶ。
辺りを払う威厳
山門が移されたあとの裏門について、加能郷土辞彙は「後方渓谷に面した所にも門があったが、その礎石は非常に巨大なるものであった」と書いている。門自体が「従前の表門を裏門とした遺址」だったからである。礎石はその後、門の解体(1759年=宝暦9=の大火で類焼、3年後に復興)とともに行方不明となるが、文面からは、裏門となる以前の表門としての山門がかなりのものであったことが伺える。辺りを払う威厳さえ感じ取れるのである。
ここにいう後方渓谷は開山当初は前方にあたり、一帯を宝円寺谷と呼んだ。「山門が建てありしゆゑ(え)」(金澤古蹟志)の呼称であり、裏門坂の「昔」の名前が宝円寺谷坂だったこととも符合する。谷には門前町があった。「谷之内七十三軒焼失」した災害記録(1741年=寛保元)も残る。「春は鶯(ウグイス)の初音を待った」幽谷の急な参道には石段が必要だったであろう。いまも坂はスロープに石段が併用されたコンクリート舗装。「数えたらちょうど100段あった」と地元の人がいう石段は、木曽坂と合流、扇町(旧材木町)へと下りる。
坂標の本末転倒
小立野婦人学級の1986年度(昭和61)文集『いし曳1号』に「木曽坂が木曽谷と呼ばれていたころは深い谷で、その絶壁の上に宝円寺の表門を置いたというのは何か含みがあってのことでしょうか」とある。昭和も終わりに近づいてなお、砦としての宝円寺に思いをはせる人はいたのである。
この筆者は裏門坂を「昔の木曽坂」と呼び、当時の様子を「見下ろせば左下の木々の間から現代の木曽坂の白い道路が見え隠れし、目を上げると遠く日本海が見通せる」と著わしている。その木曽坂は拙稿「なぜか木曽坂-がん克服のみち」で書いた通り1932年(昭和7)、失対事業でできた坂である。裏門坂が造られたであろう宝円寺の開山時、1583年(天正11)と比べると実に350年もあとである。木曽坂の坂標(坂道標柱)が「その一部は宝円寺の裏門の坂なので裏門坂ともいわれていた」としているのは本末転倒であろう。
裏門坂は坂上の東兼六町を20mほど行くと「みどり坂」を介して木曽坂につながる。車はここを通る。みどり坂は坂上に家々が建ち並ぶようになって、町内融和の精神から醸し出された名である。住んで50年になるという元町会長は裏門坂について「かつては茶室があり琴を教える家もあった」と話してくれた。眺望に加え、絃の音が漂う風雅な坂でもあった。空き家のまま放置された家がある。権利が絡んで手が着けられないそうだ。「クルマが入らないからねぇ」。それがいいのか悪いのか、元町会長は繰り返しつぶやいた。