金沢の坂道コラム

なぜか 木曽坂 - がん克服のみち

がんの放射線治療のため、木曽坂を上って金沢大学医学部付属病院に35日間通った。11年も前の冬のことである。正月をはさんでの日々、どんな思いで坂を上っていたのだろう。同じくがんを克服した宮城県元知事、浅野史郎氏ではないが「根拠なき回復への自信」(浅野氏は「根拠なき成功への確信」)がわたしを突き動かしていた。そして克服した。2年前には担当医の完治宣言を受けている。

どんな思いで…。不思議に死については考えなかった。上っている坂が「これが木曽坂か」と思ったくらいが覚えていることだ。

失対事業でできた

扇町から東兼六町などを経て宝町へ上る。延長350mは市内随一の長さとも。三方を高い崖に囲まれ、左に右へカーブしながらのコースには幽谷の趣が漂う。

「この坂ができたのは昭和7年(1932)、できてからまだ50余年しかたっていません」と小立野婦人学級62年度文集『いし曳』2号にある。書いたのは当時の「一学級生」。いまなら「80年余」と書き直さなければならない。

「そのころは」とつづき「経済不況のときで、失業対策の一つとして道路がつくられたのです」。「トロッコで土を運んだそうです」とあるから書いた当人は現場を見ていないのだろう。トロッコとダンプカーの間に50年の月日が流れている。“失対”の手が入るまでは源太郎川が流れるだけの、草や木が一面に生い茂るうっそうとした谷。細々と通る間道には「探検好きの子どもたちもキツネやタヌキが出るといって怖がり」近づかなかったという。

絶壁の上の宝円寺

その風致が信濃の木曽路に似ることから名づけられたという木曽坂も、昭和の初めまでは細く急な間道が通るだけの「木曽谷」だった。加賀藩前田家ゆかりの宝円寺が「従来の表門を改めて、山門を馬坂の上に建て」(稿本金澤市史)たのは1669年(寛文9)。“北陸の日光(東照宮)”と称されたほどの大改修で、山門はこのとき現在の裏門坂のある場所から当時の裏口にあたる馬坂口に移った。新しい門前町には道路が整備され、それまで深い谷を隔てていた馬坂新道(旧町名)と土取り場だった現金沢大学病院前がつながった。いまはともに宝町である。


木曽路の風情漂う中間点付近

木曽路の風情漂う中間点付近


木曽谷が長く手つかずの渓谷のままだったのには、この辺り一帯が金沢城の搦め手の防衛線だったことと関わりがある。利家が入城する前の一向一揆勢との戦いでは、信長配下の佐久間盛政が小立野台地を下って一揆勢の籠る尾山城(金沢城の前身)を攻略している。荒野が広がる背後は城の弱点だった。1620年(元和6)、一万一千坪の地を与えられて兼六園内から移った宝円寺は、砦としての役目も背負っていた。「絶壁の上に宝円寺の表門を置いたというのは何か含みがあってのことでしょうか」と『いし曳』1号には書かれている。

搦め手の石川門と向き合う大改修前の宝円寺山門。その直下の谷間をひとがうろうろしてもらっては困る。ましてや道を付けるなどとんでもない。谷間は“入らずの森”のままの方が砦としては好ましい。


住宅街となって渓谷の面影はもうない坂上付近

住宅街となって渓谷の面影はもうない坂上付近


紫錦台中に通じる石段。取り付けの坂や階段が多い

紫錦台中に通じる石段。取り付けの坂や階段が多い


目と鼻の先には土取り場がある。土は城や惣構(そうがまえ=城下町を囲む堀や土居)など城砦都市づくりに欠かせない資材である。土取場永町、土取場城端町といった旧町名が歴史を物語る資材現場に接して、城の土台を固める戸室石を運んだ石引道路が通っている。宝円寺から谷をはさんだ向かい側、石引道路に面する紫錦台中学校の壁には「海抜55m」の標識。高台である。砦の要素を持つ天徳院や如来寺が建ち、辰巳用水が引かれ、煙硝道路が敷かれ、弓・鉄砲の射撃場があった一帯は、藩政時代を通じ秘密の多い軍事基地でもあった。


1897年(明治30)の宝円寺伽藍(加能宝鑑より)

1897年(明治30)の宝円寺伽藍(加能宝鑑より)


木曽路の風趣か

木曽谷はこうして昭和の初めまで谷間のままで温存されてきた。となると、木曽路から付けられた木曽坂という風雅な名前の由来はいささかあやしくなる。藩政期、木曽路の風趣を知っていたのは参勤交代でここを行き来した侍ではなかったのか。町人や農民が移動するのにいろいろと制約があった。風趣を感じ取るには程遠い、当時の厳しい旅の現実もある。

中山道木曽路馬籠・妻籠宿。現在は岐阜県中津川市馬籠と長野県木曽郡木曽町に行政区分(平成の大合併)されるが、もとは馬籠峠をはさむ木曽郡に属していた。ここを参勤交代の2,000人の隊列が通るとする。人里離れたところでは気が緩んで隊列を崩したとはいわれるものの、難所の峠越えである。病死する者もあったという“行軍”は並大抵のものではなかった(『参勤交代道中記-加賀藩史料を読む』忠田敏男、1993)。どうにか風趣を感じ取ったにしても、それを懐かしんで国の、荒れるがままの谷間の間道の名付けに使うかどうか。

わたしの結論は、谷は昭和の初めまでは信州木曽の山中で見かけるような「木曽谷」であり、その後、道が切り開かれ、坂路に木曽谷にちなむ「木曽坂」の名が付けられた―。坂の名は風趣からではなく、谷の名からきた。そう考えるのが自然だ。ひとそれぞれの想いには陥穽とまではいかなくても欠落というものがままある。それを補って余りある考えすぎもある。通説、必ずしも正しからず、である。木曽坂は昭和の坂なのである。


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