金沢の坂道コラム

“サクラのトンネル”は遅刻坂 - 金沢桜丘高校の児安坂

”サクラのトンネル”児安坂(2018年4月4日)

”サクラのトンネル”児安坂(2018年4月4日)


「おーい、早く来いよー。遅刻するぞー」。丘の上から先生の声がする。石川県立桜丘高校(大樋町)の始業前。息せき切って駆けつけた生徒はここで最後のダッシュをかける。児安坂(こやすざか)。長さ158m、幅4m。斜度5-7°の緩い坂である。生徒は息が切れても、そこは学園、なんとなく周囲はのんびりしている。

山を崩し、もっこを担ぎ

坂のある児安が丘は、麓に723年(養老7)創建の児安神社があることから名付けられた。安産の神様として知られ、境内になでるとご利益のある子授け石がある。スギ、ケヤキ、タブの杜に囲まれたお社は古いが、坂は新しい。1921年(大正10)桜丘高校の前身・金沢第三中学校が創立され、校舎の建設が始まった。第一次世界大戦後の反動恐慌にあえいでいた当時、建設地の地価の安いことが求められた。神社の裏山である児安が丘はその点、最適地だった。


旧金沢三中時代の児安坂=「金沢三中・桜丘高校五十年史」より

旧金沢三中時代の児安坂=「金沢三中・桜丘高校五十年史」より


麓の児安神社

麓の児安神社


整地作業は生徒・教職員はもとより、地域の人たちも動員して行われた。周辺町村(当時)は奉仕団を組織し「半ば強制的に日を割り当てたので家ごとにだれかが参加した」と『金沢三中・桜丘高校五十年史』(1970刊)にある。「山を崩し土を掘り、もっこを担ぎ、トロッコを押した」。「これだけの労力を提供してどれほどの者が三中に入れてもらえるのか」とボヤキも漏れた。工事用の坂道は2年後の23年(同12)校舎の完成を見たあと登下校路となり、いつしか児安坂と呼ばれるようになる。


「作業科」の成果

桜丘高校となるのは戦後の49年(昭和24)。校名は「たくさんのサクラがある丘だから」ということで決まった。「児安台」「自由ヶ丘」の二案は退けられた。サクラはなぜ多かったのか。その辺を伝えるまとまった資料はないようである。『五十年史』などから、丘陵が桜の園になるまでの経緯を拾い上げてみた。

造成当時、丘は雑木とクズの葉、ササに覆われていた。校舎が完成しても「赤土の山肌が露出。小さなマツが少しばかり植えられ、敷地の周囲の崖に土どめのアカシヤが植えられているだけ」(『四十五年の歩み』)の殺風景さだった。記念事業として25年(大正14)頃から父母の寄付による植樹がなされた。サクラ、マツが主で、これが今に至る桜丘のもととなる。昭和に入って、5・15事件など国の内外が騒然としてくる中で実業教育の必要性が叫ばれるようになる。学ぶだけでなく社会の役にも、というわけである。「今、児安が丘を覆っているサクラの一部はこのころの作業科の時間の成果である」と『五十年史』。生徒たちは穴を掘って馬糞を埋め、桜の若木を植えていった。

同じころ、児安坂沿いにはアカシヤが植えられた。直径5㎝にも満たない貧弱な木が卒業する頃にはたくましく枝を繁らして「アカシヤの坂」と呼ぶ人もいた。58年(昭和33)これがサクラに植え替えられ、桜色が強まることになる。


昭和36,7年頃の児安坂と校舎=「金沢三中・桜丘高校五十年史」より

昭和36,7年頃の児安坂と校舎=「金沢三中・桜丘高校五十年史」より


現在の児安坂。左手に旧金沢三中校舎(2018年4月3日)

現在の児安坂。左手に旧金沢三中校舎(2018年4月3日)


輪奐(りんかん)の美


台風で倒れるなど被害もあったが、卒業記念に植えたり同窓会が開催記念に植えたりして増えてゆく。高校にアクティブサイエンスクラブができ、補植・枝打ちなどの手入れも行われるようになった。児安坂周辺はソメイヨシノ一色である。一斉に開花し、白い校舎を背にした光景は「輪奐(りんかん=建築の広大・壮麗なこと)の美」を極めた往時を彷彿させるという。

現在、校舎を取り巻くサクラは64種643本(三桜同窓会調べ)。カワヅザクラに始まりウコンザクラ、ギョイコウ、ジュウガツザクラ、シキザクラ…。寒暑期を除いてほぼ年中、花が見られる。同窓会主導のそれまでの「桜1,000本運動」は昨年「桜里山整備事業」に名を変えた。2020年の創立100周年に合わせ、サクラの育成・管理から新たな植樹などサクラ樹林形成のための半永久的な活動になるという。

なんともいえない幸せ


旧金沢三中校舎㊨と児安坂㊧(2018年4月4日)

旧金沢三中校舎㊨と児安坂㊧(2018年4月4日)


桜花にカメラを向ける人がいる。漂鳥のシメが飛来したりする。校地のため一般の立ち入りは禁止されているが、学校側は「同窓の方と思って」見て見ぬふりをする。児安坂が唯一の通学路だった頃は、サクラの背が低く野球部のマイクロバスに枝が当たったりして難渋した。現在は、坂を通るのは人と手押しの自転車だけ。車は83年(同58)もう一つあった裏山を崩し第2グラウンドを造った際に設けられた「新鳴和坂」を通る。

卒業生のほとんどは児安坂と言わず「遅刻坂」と呼ぶ。冒頭のシーンは三桜同窓会の倉本ゆみ事務局長(61)=桜丘28期=の思い出であり、遅刻坂の所以を余すところなく伝えている。「ポコポコした(サクラの)世界に、なんともいえない幸せを感じる」と倉本さん。「なぜか、仲よし3人で坂を下りた」卒業式の日のことが脳裏に焼き付いている。

OB、OGはやがて3万人になる。桜里山整備事業を通じて「まさに“サクラのトンネル”であった児安坂が蘇るよう」、そして「まじめで素直な気風(校風)のDNAがいつまでも引き継がれるよう」、旧三中玄関棟(県指定文化財)にある事務局で奮闘する倉本さんである。


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