金沢の坂道コラム

上り うまざか、下(お)り むまがり ― 馬坂 <上>

1991年(平成3)の馬坂(提供:東洋設計)

1991年(平成3)の馬坂(提供:東洋設計)


標記タイトルは、5年前に書いた鶴間坂の『上りうっさか、下りつるま』をもじったつもりである。語呂のよくない「むまがり」をあえて使ったのは、小立野丘陵・馬坂(扇町-宝町)の言い伝えが「六曲り」からきているのではないか、六曲がり坂が訛って「うまざか」になったのではないか、と思うからである。「六ッ曲ㇼ坂」とか「ろくまがり」と表記する書もあるが、ウマの発音に近いのはやはり「六曲り」だろう。

「六」のリアルさ

「藩政初頭前後から坂下の田井村の農民が小立野から秣(まぐさ)を積んだ馬を引いて降ったことに由来する」(『小立野校下の歴史』)という説を否定するつもりはない。坂標も「馬ひき」「六曲り」の両論を刻んでいる。ただ、坂を「降って」みて思うのだ。標高差25m、延長180mの中にカーブが6つある。上ってみても同じなのだが、屈曲が6ヵ所ある。いや、7ヵ所だ、5ヵ所だ、という人もいるだろう。その人の取りようという部分はある。だが、地名は地形からともいう。六つ折れが馬坂の名のもととなったと考えるのも一考に値すると思うのだ。

数学者でもある『サカロジー』の国本昭二さんは、「六曲り」について「割り切れる偶数を使ったのがおもしろい」と書いている。いく折れもしている道を「七曲がり」とか「九折(つづらおり)」と奇数を使って呼ぶが、「実際に6つの曲がりがあったのだとしたら、ずいぶんリアルなネーミングだ」という。歌の文句の「苦労七坂」は世間に“坂”がいかに多いかを示している。つづら折りは、九折とも九十九折とも書く。九折という地名(津幡町)がある。川が5ヵ所蛇行して大曲(宮城県東松島市)となったところもある。「多い」を示す数字は大概奇数である。


「六曲り坂」を刻む標柱

「六曲り坂」を刻む標柱


古書に両論


地誌に描かれた馬坂像を見てみよう。
「六曲り」説を採るのは加越能三州名跡志である。馬坂について「宝円寺前より天神町へ下る間六曲りなり。故に六曲り坂といいしが、後に誤って馬坂と云う」(金澤古蹟志)とある。「誤って」は「訛って」のことだと思うが、地形的には六曲がりしていたことを示している。1855年(安政2)、加賀藩の老臣村井氏の家士村上生庸が著わした。「宝永誌及び能登名跡志から抜粋して、増補を加えた」(加能郷土辞彙)という。

金澤古蹟志は「この説非なりと亀の尾の記にいう」とも書く。その亀の尾の記だが、「六つ曲り坂の約言」を間違いとするだけでその根拠を明らかにしているわけではない。「馬を牽(ひ)き上り下りする故」とする「ある記」を「さもあるべし」とする。ある記とは何だろう。「馬ひき」説を採る古書に史家青地礼幹が著した加邦録、越登賀三州志などがあるが、1748年(寛延元)に書かれた加邦録が「小立野・田井村の往来で、草刈などの馬道であったから馬坂と名づけた」(加能郷土辞彙)と明快にしている点でこれに当たると思われる。


金沢十九枚御絵図1828(県立図書館蔵)に描かれた”六曲り”

金沢十九枚御絵図1828(県立図書館蔵)に描かれた”六曲り”


まっすぐ?

加邦録はさらに「この坂昔は直ぐにして険しかった」としている。「直ぐ」とは直線的で曲がっていないことであり、六曲がりとは相反する。加越能三州名跡志よりおよそ100年早い加邦録が書く「昔」とは、坂上が未開拓だった藩政初頭前後を指すとみてさしつかえないだろう。坂下は蓮如上人も通ったオコ往来である。本泉寺のある若松、二俣へ、さらには越中砺波につながった。ここから、まっすぐに上るのはかなりきつい。不可能に近い。そこで想起されるのは、段丘崖の途中に平地があり、坂が上につながっていない頃はその平地が馬の飼養地になっていたのではないか、ということである。途中の平地は孤立地形であり、馬に秣を食べさせるほどの放牧は可能である。

加賀の小字地名を調べる会の『加能地名総覧』によると、七尾市三引町の舌状台地に小地名馬坂(まーさか)がある。海に突き出た低地に牛を放した志賀町牛下(うしおろし)の例もある。平地につながる坂は「直ぐ」だったのだろう。そのうち、さまざまな必要が生じて坂の上と下がつながる。必然的にいくつかの曲がりができる。―「直ぐ」という状態を理解しようとするとそんな経緯が想像される。平地を点に坂道の線でつなぎ、崖の凹凸を縫うと六曲がりになるという寸法だ。坂上に町家が建ち、馬坂新町ができるのは1662年(寛文2)のことである。


繁みの中の坂道。ところどころに平地がある

繁みの中の坂道。ところどころに平地がある


趣違う上りと下り

屈曲した急坂は絶景を生んだ。坂下の鮮魚店「越吉」で生まれ育った3代目越村久男さん(82)=扇町=は高校時代、坂上の学校のハンドボールの部活を終えると近くの柔道塾へ通った。毎朝、弁当2つを持って家を出た。帰り道、ふと顔を上げると、目の前に橋場町から香林坊までの夜景が広がっていた。家々の灯りがチラチラしていた。「何とも言えない美しさだった。疲れた体にやさしかった」。そう話す越村さんの目が遠くを見つめた。

旧制四高の柔道部帰りの井上靖も、W坂を上るときそんな夜景を目にしただろうか。寺町の下宿へと坂を上る井上にW坂は「腹がへると、何とも言えずきゅうと胃にこたえて来る坂」(小説『北の海』)であり、つらい坂であった。上る井上と下りる越村さんの受け取り方の違い。曲がりの多い上りと下りはそれほどに趣が違う。


現在の馬坂

現在の馬坂


<参考>

馬坂関連地名(旧市町村における小地名)

うまざか内川・山川 野村・野田 久常・徳久 鳥越・渡津 鳥越・左礫 鳥越・三ツ瀬 三谷・日谷 塩津・潮津 小坂・長屋 浅川・下荒屋 森本・観法寺 三谷・正部谷 金沢・字地(現金沢市扇町) 志雄・菅原 崎山・鵜浦 正院・岡田
うまさか内川・別所 吉野谷・吉野 国府・館 三木・橘 三木・永井 山代・山代 小坂・卯辰
まーさか田鶴浜・杉森(現七尾市三引町)

<『加能地名総覧』より>


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