金沢の坂道コラム

上り うまざか、下(お)り むまがり ― 馬坂 <下>

1991年(平成3)の馬坂(提供:東洋設計)

1991年(平成3)の馬坂(提供:東洋設計)


「牛坂に対しての馬坂であろう」とする説もある。牛坂は現在の鶴間坂。小立野丘陵に沿った馬坂の上約1.2㌔にある。『平次(金澤古蹟志の著者森田平次)按(案)ずるに、此の坂路の上に牛坂といふもあり。然れば牛坂に対し、馬坂とは呼びそめたるならんか』というわけである。加能郷土辞彙の日置謙はこれに対し『採り難い』と一蹴する。一方で、サカロジーは最高斜度(牛坂6°・馬坂26°)などをひきあいに、森田案を「馬ひき」や「六曲り」より『信憑性がある』とする。往時の生活圏からみて、2つの坂につながりは感じられないのだが…。

昼夜、三味の音

牛坂が、鶴の舞うようなたたずまいから鶴舞谷-鶴間坂となったように、馬坂も越村さんの心を癒すに十分な絶景を擁していた。温知叢誌は、明治10年代のわずか5年ほどの間だけだったものの、馬坂の両側に料理店や待合が建ち並び、昼夜、三味の音が鳴り響いたことを伝えている。現在の静かさからは想像もつかないが、越村さんは子どもの頃、そんな話を祖母から直に聞いている。「漸次衰退今や其の面影を存ぜざるのみならず、坂路に一軒の住家なし」とわずかな間に馬坂は変転する。

その後の馬坂はどうなっていったのだろう。坂の途中に不動尊堂があり、小さな祠の下をくぐって流れ出る清水は、目を洗うと眼病にいいと伝えられた。代々、世話人の手によってお講が営まれ、祭礼がかかった。坂は再びのにぎわいを取り戻した。やがて清水は枯れ、人びとの足は遠のく。金沢大学附属病院など坂上のビル建設で地下の水脈が断たれ、馬坂の300mばかり先にあった天神坂の井戸も枯れた。

不動尊堂の下に供養塚が1基、人知れず建っている。「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑は藩末の1838年(天保9)、椿原天満宮の火災に際し、大工弥三郎が炎の中からご神体を救い出そうとして焼死、これを悼んだ天神町・馬坂町の若連中によって建立された。文字はやっと読める程度で、土台が傾くなど損傷が進んでいる。説明板もないためなんの碑かわからない。三味の音をもかいくぐってきた慰霊の碑。“路傍の石”と化した今は何も語らない。


弥三郎供養塚

弥三郎供養塚


一向一揆の頃

藩政以前の馬坂一帯はどんな様子だったのだろう。
越登賀三州志によると、小立野が山崎山と呼ばれて草刈り場だった頃、一向一揆が成立する。本願寺は一帯を田井村から米6石で買い取り、別院的性格を持つ本源寺を建立する。場所は現在の兼六園に隣接する金沢神社・金城霊沢付近。信徒たちは御山(おやま)と呼んで崇敬し、本願寺もここをよりどころに支配と布教の強化を図る。防備のため馬坂周辺に城砦(じょうさい)が築かれる。田井城と石浦、高垣、椿原、石名塚の砦である。

田井城は現在の金沢医療センター、石浦の砦は県立美術館、高垣の砦は天神町緑地、椿原の砦は椿原天満宮、石名塚の砦は田井菅原神社のそれぞれ近辺と推定されている。本源寺の存在そのものが疑問視される中で、金沢御堂(後の金沢城)の防衛線としてこれら城砦は「否定し得ない」(加賀藩農政史研究家・清水隆久氏)もののようである。馬坂はその真っただ中にある。坂の上からは浅野川の流域が上流の湯涌谷から下流の河北潟まで一望にできる。眼下に高垣の砦、左に田井の城、右に椿原の砦が見える。


加陽金府武士町細見図1734(玉川図書館蔵)に描かれた馬坂周辺

加陽金府武士町細見図1734(玉川図書館蔵)に描かれた馬坂周辺


木曽坂城


一向一揆研究をライフワークに各種文献を渉猟した元高校教諭辰巳明氏の遺稿『一向一揆研究ノート(1)』によると、坂の上には木曽坂城があった。馬坂の裏側にあたる木曽坂は坂として整備されるまでは木曽谷と呼ばれていたことから、木曽谷城だったかもしれない。城は木曽谷、馬坂という2つの天然の“堀”に面し、それぞれに城門を構えていたであろう。後に藩主前田家の菩提寺・宝円寺が建つ要害の地である。一定の役割を担っていたことは否めない。

兼六中学校近辺には石那坂城があった。天神坂とつながる石那坂があり、1本の坂である天神坂が石那坂と呼ばれていた時代があったかもしれない。辰巳氏はほかにも若松城、大桑城、笠舞城などの存在を挙げ、前田家によって消された歴史の掘り起しに努めたものの志半ばで病に倒れている。これらの城砦は藩政に入ってなお“隠し砦”として余命を保つが、1615年(元和元)の幕府による一国一城令で形骸化する。


雨の馬坂

雨の馬坂


“隠し砦”への坂

やがて隠し砦は姿を変える。寺社や武家屋敷に転用され、地の利を生かして新たな役割を負うことになる。馬坂下には加賀八家(はっか)の横山家や奥村支家、加賀の小城といわれた成瀬家が屋敷を構え、坂上には宝円寺のほか天徳院、如来寺、経王寺が建つ。馬坂は重要な連絡路となる。浅野川に注ぐ田井用水(源太郎川)は秘密裏に軍事物資を運ぶ水路に使われた。材木町の河口を遡った舟は西光寺(暁町)脇の舟溜まりに着き、降ろされた荷はこれら隠し砦に運び込まれた。

宝円寺の墓地から伸びた木々の蔓(つる)にぶら下がって遊んだ。当時流行ったターザンを真似たつもりだったが、勢い余って何人かが崖下に転落した。気絶する子もいた。―越村さんの思い出の1つである。子どもたちにとってお寺と坂の組み合わせは絶妙だった。公園はなくとも自然の遊び場があった。坂は昭和半ばに舗装され、平成に入って修景工事が施される。思い出が遠ざかる一方、越村さん宅の庭には今もミズバショウが咲く。


現在の馬坂

現在の馬坂


<参考資料>

  • 『加賀藩十村役田辺次郎吉-十村役の実像を求めて』清水隆久 加賀藩十村役田辺次郎吉刊行会 1996
  • 『一向一揆研究ノート 1 消された城砦と金沢の原点を探る 一向一揆時代の金沢・小立野台地周辺考』辰巳明 辰巳富子 1987

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