金沢の坂道コラム

“御石”を吊り上げた崖 ― 野坂

【図1】『戸室山初年号等留帳』の図㊧とその写し㊨ 「牛坂」とあるは「野坂」

【図1】『戸室山初年号等留帳』の図㊧とその写し㊨ 「牛坂」とあるは「野坂」


【図2】1913年(大正2)の野坂~上野周辺

【図2】1913年(大正2)の野坂~上野周辺


(いずれも『戸室石引き道調査報告書』より)


「緑に覆われると視界からすっぽり消えてしまう幻の坂である」と書いたのは昨春のことだ(2018.3.11付『亀坂は90°方向転換した』)。2年近くたった師走のある日、木の葉もほとんど落ち見通しがなんとかよくなった野坂(小立野1丁目)を上った。崖である。急坂の多い小立野台地(注1)でもこれ以上のものはない。眼下を走る昭和の歩車道・旭坂(県道芝原・石引町線)の崖にへばりつき急角度で上るその姿は、かつての栄光を押し隠し、時代に背を向けているかのようである。


ポイント

かつての栄光―。それは1593年(文禄2)、金沢城の土塁を石垣に換えるために切り出した戸室石を運ぶ道となったことに始まる。大勢の人足が石を引き、木やりが景気をつけた。切り出しはその後も断続的に行われ、「御石」を「御留(おと)め石」とした世は明治の廃藩置県(1871年)までつづく。ただ、城の南東・戸室山(標高548m)から約11kmの運搬経路のなかで10㌧を超えるような大石を小立野台地へ吊り上げたのはどの坂か、いま一つはっきりしなかった。牛坂(現鶴間坂)説や馬坂説が飛び交うなかで、野坂説は取り上げられることは少なく、取り上げられたとしても「真偽のほどは不明」(『小立野校下の歴史』2001)と淡いベールに包まれてきた。


山中を思わせる野坂。樹間から外光が射し込んでハレーションを起こした

山中を思わせる野坂。樹間から外光が射し込んでハレーションを起こした


それは多分に、野坂があまりに見捨てられてきたからだ、とわたしは思う。旭坂(1973年=昭和48路線認定)が出来てその趣きはいっそう強まった。人のほとんど通らない、雨や雪の日は歩行困難となる坂道など「知ったこっちゃない」と思うのはなりゆきだ。そこで声を挙げたのが石川郷土史学会の北島俊朗さん(86)=東山3丁目=だ。88年(昭和55)、『戸室石引道について-野坂周辺を中心に』を発表。95年(平成7)には北島さんを調査主任とした金沢市の『戸室石引き道調査報告書』がまとめられた。報告書は野坂を「ムラからマチへ向かう」ポイントとして明確に経路に組み入れている。

オオサカ

ここで一人の女性(現在は故人)が登場する。大正12年(1923)生まれの彼女は市の聞き取り調査に対し「野坂の(石を運ぶための)入り口は、浅野川に架かる現在の下田上橋(かつての田上橋。「たがみ橋」とも)より下流方向にありました。(現在の)旭坂はなく、橋の西詰めから旭坂上り口を左に眺めて金沢大学工学部(角間に移転して現在は跡地。かつての金沢高等工業学校)方向への坂を上りました」と語る。加賀藩の記録(穴生方後藤家伝・注2)である『戸室山初年号等留帳(とむろやまはじまりねんごうなどとめちょう)』(近世史料館後藤文庫蔵)に描かれている図と一致し、そこに描かれている「牛坂」は「野坂のことです」と言う(図1・2)。藩政時代の面影を引きずっていたであろう当時の風景を目の前にさらし、親たちから聞いた記憶を絞り出すような貴重な証言である。

北島さんはまた、大石を載せた地車が下り坂で使う下し杭(おろしぐい・注3)が「茶ノ木原(現若松町・シェア金沢付近)から田上(現田上町)に下りる坂につづいて、亀坂近くの酒屋前にも設置されている」(同留帳)ことに言及。古地図などでその酒屋の所在を確認し、野坂から上野(上野町・現小立野3丁目)を経て亀坂に向かった“石引きルート”を裏付けている。

女性にはもう一つ重要な証言がある。野坂のことを「オオサカ」とも呼んだという。昔からそう呼ばれていたというオオサカについて、北島さんは江戸期の検地帳にミチとオオミチの二通りの表現があることを引き合いに「オオミチは単に大きな道というのではなく、国道クラスの大事な道という意味で、オオサカもそれに倣った呼称だったのではないか」とみる。そうだとすると、藩政時代の呼び名が昭和の世になお命脈を保っていたことになる。坂と人との関係性に改めて思いをいたさなくてはならない。

アンマキ

女性の親戚にあたる橋爪孝志さん(60)=小立野1丁目・菓子店経営=に子どもの頃を思い出してもらった。「野坂を“田上の崖”と呼んでいた。下りた辺りは道幅が現在の旭坂の半分くらいで、砂利道を渡ったところに斜面の畠があった。長さは50mもあったろうか。雪の日、みんなで日の暮れるまでスキーをした」。子どもたちの遊び場は新しい坂道の出現で消えた。たかだか「50年ちょっと前の話」(橋爪さん)だ。

野坂の上も大きな変化があった。1898年(明治31)、第九師団が設立された直後、上野射撃場が一帯に建設された。上野町に通じ、湯涌街道(現県道野田・上野町線)の亀坂を経て小立野通り(県道金沢・湯涌・福光線)につながる坂はこのとき改造され、住宅地の市道脇から急な石段(36段)を下りる現在の形になったとみられている。坂はちょん切られた。これでは地車が上がらない。「必要ならなんでもやる」軍隊ならやりかねないことではある。

台地の上には当時、橋爪さんの祖父が創業した菓子店があった。どら焼きの皮でこしアンをくるんだアンマキが、調練を終えた兵隊さんに人気だった。「知ってはいたが見たことはない。工学部の学生さんからもつくってくれと言われたが、触りもしないものをつくれなかった」と職人気質の3代目。「時代が変わって人の好みも変わりましたからねぇ」。時代は変わる。そんななかで、いつまで繰り返されるのか―。野坂は来年、緑に包まれてまた幻の坂となる。


野坂の上り口(手前は旭坂)

野坂の上り口(手前は旭坂)


野坂上の台地から望む旭坂と、奥にかすむ戸室山

野坂上の台地から望む旭坂と、奥にかすむ戸室山




注1小立野は「幅狭く竪長き野」小竪野からきている。浅野川、犀川に挟まれた東西600m、南北4,000mの台地で、標高は60-80m。野坂付近は笠舞段丘の分を差し引くと幅350mと狭い。野坂は延長200m、高低差は40m。
注2あのう。穴太とも書く。石垣師のこと。
注3地車を下ろす際にブレーキ綱を引っ掛ける杭。

あわせて読みたい

上り うまざか、下(お)り むまがり ― 馬坂 <下>

上り うまざか、下(お)り むまがり ― 馬坂 <下>

日はめぐる。三味の音に包まれたこともある馬坂は、その昔、戦に備える一向一揆の城や砦の真っただ中だったことがある。隠し砦をつなぐ道に使われたこともある。変転著しいのだ。

コラムを読む

上り うまざか、下(お)り むまがり ― 馬坂 <上>

上り うまざか、下(お)り むまがり ― 馬坂 <上>

馬坂は「六曲り(むまがり)」しているのでその名が付いた。「まーさか」というなかれ。実際に上って(下りて)みて、足の裏の感覚でそう思った。フィーリングだからどうしようもない。

コラムを読む

二人でまわった八十八坂 - 金沢の魅力を感じる教材としての坂道

二人でまわった八十八坂 - 金沢の魅力を感じる教材としての坂道

石川県立盲学校(金沢市小立野5丁目)の箸本淳也教諭は、教え子の薫くん(中学3年生)とともに約半年かけて金沢市にある88の坂道をめぐった。その記録として作った模型や地図、レポート、冊子。それは、坂道めぐりを通して二人が感じた「金沢の魅力」に他ならない。

コラムを読む

上り うっさか 下(お)り つるま ― 鶴間坂 <下>

上り うっさか 下(お)り つるま ― 鶴間坂 <下>

鶴間坂にはいろいろないい伝えがある。上から眺める景色がいいわりには下からはうっそうとした森になっていて、その内容も風光を愛(め)でるものから神霊のたたりまでいたって幅広い。名醸とうたわれた銘酒「旭鶴」もあった。牛坂以来の歴史が重い。

コラムを読む

上り うっさか 下(お)り つるま ― 鶴間坂 <上>

上り うっさか 下(お)り つるま ― 鶴間坂 <上>

鶴間坂はもと「うっさか」と呼ばれていた。「牛坂」と書く。鶴舞谷変じて鶴間坂、そのもととなった牛坂はもともと一つのものだ。「牛」が「鶴」になって羽ばたくのは、古来、瑞祥地名に願いを託した人びとの思いがあったからだ。

コラムを読む