上り うっさか 下(お)り つるま ― 鶴間坂 <下>
ところで、金沢商業高校の裏手にあたる坂の上にはいまもでデンとした洋館が数軒ある。絶景を楽しむために建てたとしか思えない風である。家々の間からは浅野川低地とその先の山並みが垣間見える。なるほどお金持ちは違うもんだなぁ。そうとわかっていれば、わたしも人生、もう少しがんばってみたものを…と思う。
向こうの松山は戸室山?
加能郷土辞彙にいう「向かうの松山」とはどの山のことだろう。「松山」は他の文献にも出てくるが、よくわからない。民謡山中節の「忘れしゃんすな山中道を 東ア松山 西ア薬師―」と同じで、松の木が見えるから、あるいは目立つから向こうの山を松山と呼んだ、ということもあるのではないか。向かいには奥卯辰山健民公園のあるかつての鈴見山、その奥に戸室山(標高548m)がある。
戸室山は金沢城の南東約12km。角閃石安山岩の通称・戸室石を築城のため切り出した山として知られる。奥卯辰も多いが、戸室山も松は多い。そういえば、戸室山のシンボル的存在だった頂上の黒松が雪の重みで折れたのを筆者自身、目撃している。平成14年(2002)1月24日のことだ(山行記録より)。食堂「どんぐり」の横からかんじきをはいて直登し見つけた。高さ2mほどのところで見事に折れていた。その後、切り株だけが残された。海岸部に多い黒松が山のてっぺんに生えていたので妙に記憶している。
みうらやの路
鶴舞谷からの眺めとして、向こうの山に春草の萌えだすころ「あざやかにみうらやと仮名文字のやうにあらはる」と残雪期の雪渓が山肌に文字を浮き上がらせるさまが『北国奇談巡杖記』(綿屋北巠、吉川弘文館、1974)に描かれている(「みうらやの路」)。添えられた挿絵(さしえ)を見ると、医王山の手前にある大きな山ということで戸室山に間違いなかろう。当時の人が怪異現象と受け取ったこの風景を肴にいっぱいやっている人も描かれていて、昔の人はおおらかだったんだなぁと思う。
「牛坂渡鳥」として犀川春霞、泉野桃花、増泉森蝉、春日紅葉、山科暮雪などとともに好事家を唸らせた金沢十景の一つは、選定された明治維新のころをしのばせてなお健在である。これを堪能するには、葉の茂る夏場はあまりよくない。葉が落ちた「みうらや」のころが一番いい。
土牢、観音、清水、そして「旭鶴」
土牢があった。加賀騒動に巻き込まれた犠牲者の一人、加賀藩六代藩主吉徳の三男勢之佐(後の利和)がこの谷間に幽閉され憤死、中臈(奥女中)浅尾の局もここで処刑された。浅尾の死(寛延2年=1749)から10年後には城下の大半を焼き尽くす宝暦の大火(9年=1759)があり、牛坂一帯の神霊の怒りに触れたためとのうわさが広まった。経王寺(小立野5丁目)13世日当上人が加持によってこれを治め、観音像を安置して霊気を鎮めた―と『わがふるさと 今・むかし』(田上公民館、1992)は伝える。
水が湧き出ていた。東に面し朝日がさしこむことから朝日清水と呼ばれ、古くは酒が造られた。「上石引町能登屋の名醸旭鶴はこの水で造られるものであった」(加能郷土辞彙)。能登屋は福光屋の前身。寛永2年(1625)の創業といわれ、旭鶴は福光屋と名が変わったあとも明治10年(1877)ごろまで醸造されていた(『福正宗物語』福光松太郎発行人、1987)。水が涸れて旭鶴は銘柄から消えた。清水跡と観音さま、土牢跡は中腹の窪みに一カ所にまとまってある。
―そんなこんなで、上りは苦労して上って牛坂、下りは眺めを楽しみながら鶴間坂、とタイトルしました。語呂よく「のぼりうっさか、おりつるま」。庇(ひさし)を貸して母屋を取られた恰好の牛坂と、母屋に居座る鶴間坂は同じ坂ですよ、との意味を込めました。