金沢の坂道コラム

雨のあめや坂 -「あめ買い幽霊」伝説を整理する

あめや坂は「飴屋坂」である。「あめ買い幽霊」伝説に由来する。市が昭和52年度から3ヵ年にわたり調査した口頭伝承の報告書によると、計11話が集められている。まつわるお寺は市内4ヵ寺。地蔵信仰と結びついたもの・つかないもの、時代も藩政時代の初・中・後期とさまざまである。さらに、あめや坂と呼ばれる坂は市内に2つある。そんなこんなで話がごっちゃになり、あめや坂といっても一言で説明しきれていないのがいまの状況のよう。整理してみたい。

山麓の坂と寺、そして…


あめや坂

車の位置にあめ屋があった。奥が光覚寺。間を国道159号線が走る


あめや坂とは、卯辰山山麓寺院群の西北端にある光覚寺(山の上町)門前の坂を指す。森山2丁目へ下りる約60m。間に古来の幹線である現国道159号線をはさみ、上の参道と下の市道に分断されるが、れっきとした一本の坂道である。坂の途中、道路と交わる角にあめ屋があった。あめ買い幽霊伝説に絡んだ坂はここだけである。光覚寺以外の3ヵ寺に坂はない。

伝説の内容は別掲した光覚寺に伝わるものとどれも大体似ている。身重の女が葬られた墓の中で子を産む。女は幽霊となって夜な夜な近くのあめ屋にあめを求めに来る。不思議に思ったあめ屋がお寺の和尚と相談、墓を掘り返すと元気な赤ん坊の男の子。赤ん坊は成人して名僧となる…という設定である。自らも墓の中で生まれたと伝わる越前府中(現福井県武生市)の龍泉寺の開基通幻禅師(1322-91)の説教がもととされている。子に対する母の執念ともいうべき想いを説いた「子育て幽霊」譚が雲水たちによって流布され、「時代の流転の中で変容して」(『加賀・能登の伝承』)各地に広まっていく。

光覚寺のあめ買い幽霊伝説

昔、光覚寺の門前のあめ屋の戸を暗くなってから、たたいてくる人があった。店を締もうた間もなくやから、しぶしぶくぐり戸を開けて、水あめを渡したけれど、二晩、三晩と続くにつれて、不審を抱いた飴屋のおやっさんが、そうっと跡をつけてみたら、向かいのお寺の門の横から、ずうっと入って行って、そして墓場の辺りで消えたと。怖くなっておやっさんは逃げ帰って、蒲団の中で震えていたとも聞いております。
あくる日、和尚に「実はこれこれこういうことがあったがで」というて、一緒に行ってみたら、赤子の泣き声が聞こえ、お墓の間に赤子が見つかったと。それで連れて帰ったと。拾われた赤子が寺で育てられて、そして坊さんになって、母を尋ねるために北の方へ行かれたと。この寺には、あめ買い地蔵さんが建っとります。(話し手:光覚寺28世住職 志受仁孝さん)=『加賀・能登の伝承』より

男の幽霊、もち買い幽霊


西方寺(寺町5丁目)の場合は、あめ買いは「見慣れぬ男」である。墓地の入口にまつってあったお地蔵さんが赤ん坊を憐れんであめを与えた。地蔵が男に姿を変えて身代わりにあめを買いに行ったと伝わるが、周辺の古老によると、女だったという話のほうが多いという。道入寺(金石西)では、赤ん坊は和尚に育てられ、後に寺を継いで名僧となる。画匠丸山応挙に描いてもらった母の幽霊の絵(掛け軸)が伝わっていて、「どっから見ても、こっちをにらんどる」と人びとを怖がらせる。

立像寺(寺町4丁目)は「もち買い幽霊」である。もちはあめとともに子育てには大事な栄養源ではあるが、赤ん坊にもちはちょっと…などと考えてはいけない。幽霊がかみ砕いて口移しでのみ込ませるのだ。金澤古蹟志の著者森田平次の先祖にあたる森田盛昌が著した『咄(はなし)随筆』の中の「墓の中にて出生の男子」という話をもとにしている。あめは当時は水あめである。水あめはもち屋や団子屋、駄菓子屋でも商われた。金沢の町にはこのころ、そこらじゅうにあめ屋があった。

菊川あめや坂

市の調査で集められた口頭伝承には、ほかに敵討ち話もある。身重の女は殺されたのであり、土中から拾われあめ屋に育てられた男の子は、通りかかった男の独り言からその男が敵とわかり切り殺す。場所やその後は不明である。「しょぼしょぼ雨が降る夜」と舞台効果を意識した話もある。月夜は困るし、やっぱり雨かな、とは思う。『サカロジー』の国本昭二さんは子どものころ、犀川大橋のたもとにあるあめ買い幽霊坂の話を聞いている。怖がり屋の筆者にいたってはどのお寺もそのように見えた。あめ買い幽霊伝説もそこらじゅうにあったのだ。

光覚寺、西方寺、立像寺の3ヵ寺はともに越前府中から移転した。道入寺も越前府中から転入した寺の僧により開山した。加賀藩祖前田利家が金沢入りする前は越前府中の城主だったことから、通幻子育て幽霊譚は発祥の地である越前からもたらされ、金沢生まれの金沢育ちのあめ買い幽霊伝説へと昇華していった。北前船による伝播説もある。船乗りの宿ともなった道入寺、金沢に移った際はまず金石に庵を結んだ光覚寺がその範ちゅうに入る。地蔵信仰とも絡むのは光覚寺、西方寺、立像寺の3ヵ寺。道入寺は幽霊の絵が偶像となる。


光覚寺のあめ買い地蔵

光覚寺のあめ買い地蔵


さて、あめや坂。地誌を見ると、同じ呼び名の坂が2つある。もう一つの坂は犀川縁の菊川1・2丁目にあった。旧中主馬町の東南頭から下菊橋に至るその途中にあめ屋があった。幽霊は出てこない。嫁坂で嫁をもらった本庄主馬の住んだ町と接し、上は小立野台の二十人坂につながっている。「今は坂路らしい体を存せぬ」と加能郷土辞彙が書くとおり、町の人の口の端に上ることもない。遺っていればいい坂だったろうに、と思う。


山奥の隠れ里説

「坂とあめ屋と寺があった」。あめや坂が光覚寺門前だけを指すことに、志受俊山29世住職(60)は「場所柄」をその理由に挙げた。1664年(寛文4)、「周囲の農村社会から移住してきた人びとによって城下町全体の人口が急増」、「藩は住民税を払えない人たちを住まわせた相対請地(あいたいうけち)を、これ以上増やさない方策」を打ち出した(『金沢、まちの記憶 五感の記憶』)。浅野川以北には相対請地がとくに多かった。そんな土地柄、「夜陰にまぎれ、山奥の隠れ里の人たちが、乳の足りない赤子のために、町端(まちばな)のあめ屋へ水あめを求めに来た」とする“隠れ里説”がある。可能性なし、とはいかないこの説について、住職は「いろんな説があっていい。あめ買い幽霊伝説そのものが多様なように」という。

光覚寺で僧となった男の子は、寺を継ぐことなく、母を尋ねて北へ旅立つ。あてのない旅路に待ち受けるものなんなのだろう。あめや坂を下りた先には森山町小学校がある。かき氷でつくった「タイとと」の(形をした)アイスキャンディーで人気のまんじゅう屋があったが、先年、店を閉じた。


門前のあめや坂

門前のあめや坂


森山の地で180年余、8代にわたって営まれてきた越田質店はあめ屋の2軒隣だった。道路が拡張され、あめ屋は移転、店の横が坂になった。主の越田健さん(75)は、語り継がれた親子の愛情物語の精神を汲んで、坂に沿う自身経営のマンションの名を近々「あめや坂」に変えることにしている。


雨上がりのあめや坂

雨上がりのあめや坂


卯辰山(奥)の裾に広がる森山の町並み

卯辰山(奥)の裾に広がる森山の町並み


<参考資料>


  • 『加賀・能登の伝承』藤島秀隆 桜楓社 1984
  • 『金沢北地域誌 香我(かが)の譜』金沢北ロータリークラブ郷土誌編集委員会 能登印刷出版部 1983
  • 『金沢、まちの記憶 五感の記憶』小林忠雄 能登印刷出版部 2009
  • 『金沢の昔話と伝説』金沢口承文芸研究会 金沢市教育委員会 1981
  • 『金沢の口頭伝承 補遺編』金沢口承文芸研究会 金沢市教育委員会 1984

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