「幻の『善光寺』を追う」(2月)のタイトルでその由来を書き始め、番外編の「坂は人と人を繋ぐ」(6月)まで、都合7回にわたって本欄に掲載した善光寺坂。連載を通じて感じたことを加越能地名の会の機関紙「加越能の地名」No46に書いた。
書いた日:2015年12月17日
老舗の町・尾張町、そのなかから旧町名を復活させて6年目の下新町に三つの坂がある。この界隈の旦那衆が主計町、東山のお茶屋へかよった坂としても知られるが、どちらかといえば暗いイメージがつきまとった。観光の人たちでにぎわい、近年「変わった」といわれる町なかを訪ねてみた。
書いた日:2015年10月24日
「加賀藩初期、坂の上に住んでいた藩の重臣、篠原出羽守が、娘を本庄主馬へ嫁がせる時つけた坂なのでこの名がついた。」という嫁坂の由来に、温かい気持ちがこみ上げてくる。この坂に今も残る石垣は、石垣普請のエキスパートである父が娘に贈った祝福の石垣と言えよう。
書いた日:2015年10月22日
梅ヶ枝(うめがえ)坂という鬢(びん)付け油の名のもととなった坂が、旧味噌蔵町(現兼六元町)にある。「〽鬢のほつれは…」と端唄に残る艶っぽい風情もいまはむかし、日本髪というものをとんと見かけなくなったご時世に、あえて―。
書いた日:2015年09月17日
鶴間坂にはいろいろないい伝えがある。上から眺める景色がいいわりには下からはうっそうとした森になっていて、その内容も風光を愛(め)でるものから神霊のたたりまでいたって幅広い。名醸とうたわれた銘酒「旭鶴」もあった。牛坂以来の歴史が重い。
書いた日:2015年09月01日
鶴間坂はもと「うっさか」と呼ばれていた。「牛坂」と書く。鶴舞谷変じて鶴間坂、そのもととなった牛坂はもともと一つのものだ。「牛」が「鶴」になって羽ばたくのは、古来、瑞祥地名に願いを託した人びとの思いがあったからだ。
書いた日:2015年08月28日
金沢から湯涌温泉に向かう県道10号線(旧湯涌街道)にかいもち坂はある。大飢饉時代、やせ衰えたわが子を見るに忍びず、かい餅3個と先祖伝来の美田を交換した―とのいい伝えによる。医王山麓のくねくね坂はいま、都市の喧騒に巻き込まれている。
書いた日:2015年08月12日
藩政時代、非常用の味噌蔵が置かれた味噌蔵町。その一角の河岸段丘に小さな坂がある。妖怪つちのこが夜な夜な現れていっとき評判になるが、やがて時代の波にかき消されてゆく。なぜ、こんな面白い話が語り継がれなかったのだろう。不思議でならない。
書いた日:2015年07月24日
善光寺について前回までつごう6回も書いてしまった。「またか」の思いを持たれた方もあると思う。この場を借りてお詫びしたい。お詫びついでにもう一つだけわたしの思いをつづらせてください。なんの変哲もない坂道だったけれど…。
書いた日:2015年06月28日
『幻の「善光寺」を追う』(2.28)と勇ましくスタートして5ヵ月。前回まで5回に及ぶシリーズになってしまった。『寺は坂の下にあった』(5.29)そして『「寺」はなかった!』(6.6)。まだ、結着は見ていない。けど、ここらで一休みとするか。
書いた日:2015年06月17日
「善光寺という寺が付近にあったのでこの名がついた」という小立野・善光寺坂の由来。坂標にも刻み込まれているこの通説に対し「寺は存在せず、地蔵が坂の名のもとになった」とする郷土史愛好家の著作がみつかった。“幻の寺”はもともとなかったのか―。
書いた日:2015年06月06日
善光寺坂の名のもとである善光寺は確かにあった―。「寺は坂の下にあり、藩政期初頭に内川(内川地区)から移ってきた」とする論考資料『加越能の地名』。著者は中村健二前同会代表。関係者の証言がもととなっている。「幻の寺」善光寺に光は射すか―。
書いた日:2015年05月29日
金沢美術工芸大学の学生有志により発刊しているフリーペーパー『RINNGO』、最新号では特集内に金沢の坂道が取り上げられている。編集部の3人に最新号のテーマ、坂道を取り上げた経緯をお聞きしてきた。
書いた日:2015年05月23日
兼六園の外周・下坂にあるカラミザクラの実「さくらんぼ」がたわわに実っている。赤いさくらんぼをびっしり身にまとったサクラは、「実桜」の本領を発揮して、春とは違った風情を辺りに漂わす。
書いた日:2015年05月18日
石川県内で唯一、長野・善光寺の流れをくむとされる新善光寺(能登町真脇)のご開帳がこのほど行われた。善光寺坂(金沢)の名のもととなった「幻の寺」加賀・善光寺との交流はあったのか。“千年のロマン”に夢が膨らむ。
書いた日:2015年05月15日
卯辰山に入るルートの一つに常盤坂がある。いまは常盤町緑地の園路となった感があるが、この坂、維新前夜の藩政時代からの歴史を持つ。近年は「油谷牧場」として庶民の憩いの場ともなった。山腹を縫う坂道は豪雨による崩壊など文字通り風雪に耐えてきた。
書いた日:2015年04月29日
坂学会理事で事務局を担当する井手のり子さん(東京)から、「坂巡検」の下見を兼ね金沢の坂道の状況視察をしたい旨連絡があった。金沢の坂道コラムニストの壺中人さんに加わってもらい、初夏を思わせるいち日、一緒に案内した。当日は写真の通り快晴!青空のもと、坂道巡りを存分に楽しんでいただいた。当日のルートも紹介する。
書いた日:2015年04月27日
金沢の旧市街地を一望できる子来町緑地と宝泉寺。ひがし茶屋街から徒歩数分で行けるので、観光に来られた方は、ぜひ足を伸ばして欲しいスポットだ。
書いた日:2015年04月12日
金沢の桜もいよいよ満開。春の陽気と咲き誇る桜に手招きされて、兼六園、金沢城を中心に多くの人がお花見散策を楽しんでいる。坂道脇に咲く桜も坂道の傾斜美を一層際立たせている。たくさん写真を撮ってきたのでとりとめなく掲載する。
書いた日:2015年04月09日
兼六園上坂の土手に咲くツバキカンザクラが30日、満開になった。ライバルの下坂のカラミザクラより一週間遅れとなったが、独特の〝抱え咲き〟や鮮やかなピンク色がことしも多くの人を魅了している。
書いた日:2015年03月31日
兼六園に咲くサクラのうち、開花一番乗りを争っていた上坂のツバキカンザクラと下坂のカラミザクラによる〝春場所〟は20日、昨年につづいてカラミザクラの勝ちで千秋楽となった。
書いた日:2015年03月21日
兼六園のサクラのなかで、毎年、開花の一番乗りを競っている上坂のツバキカンザクラと下坂のカラミザクラ。雨の19日、形勢はどう動いただろうか。
書いた日:2015年03月20日
兼六園で、毎年、開花の一番乗りを争っているサクラがあるのをご存じだろうか?名園の外周・上坂(かみさか)にあるツバキカンザクラと、この坂と金沢城石川門前で接する下坂(しもさか)に咲くカラミザクラである。いま、まさに勝負のときを迎えている。
書いた日:2015年03月18日
善光寺坂の上に鎮座する善光寺坂地蔵。お堂に掛かる扁額の一枚に地蔵の由来などを記した縁起状がある。縁起状はケヤキ板に刻され、地蔵の銘である「標文」と呼ばれる部分の文字のすべてが解読されていた。解説が付いており、その内容から寺の存在説がより一層補強されることとなった。
書いた日:2015年03月06日
善光寺坂の坂標には、昔この付近に善光寺と呼ばれる寺があったことに由来する、とある。ところが、その善光寺がいつ、どこにあったのか、となると、答えられる人はまずいない。ましてや長野の善光寺との関わりに言及したものは皆無といっていい。北陸新幹線の開通で長野がグンと近づくいま、幻の加賀・善光寺を追った。
書いた日:2015年02月28日
「坂道学」の代名詞ともなった国本昭二さん著「サカロジー」は、『月刊おあしす』というタウン誌に掲載されたエッセイからきている。掲載から15年たったいま、国本さんが坂に託した思いをなぞってみた。
書いた日:2015年02月05日
石川県立美術館の裏の本多の森の繁みの中に、かつて加賀藩筆頭家老の家族や家臣が上り下りしたであろう坂がある。いまは廃道となっている、本多家の上屋敷と中屋敷をつないだ「御用」の坂だ。
書いた日:2015年01月27日
金沢の坂道散策を楽しむポイントとして、坂の上と下とで町の表情の変化を楽しむことが挙げられる。その代表である暗がり坂、石伐坂、美術の小径を紹介する。
書いた日:2015年01月26日
石伐坂(W坂:だぶるざか)の由来である坂上に住んでいた石伐職人の具体的な仕事内容、戸室山からの石の運搬方法の紹介。より味わい深く石伐坂周辺散策を楽しむための知識です。
書いた日:2015年01月15日
桜坂途中にある名無し坂からの眺望の紹介。犀川の優雅な曲線美を感じ、街並みの背景に戸室山、医王山を望むことができる。
書いた日:2015年01月10日
「兼六園かるた」を入手したので、48枚ある札のうち、坂道について読まれた札はどれだけあるか調べてみた。
書いた日:2015年01月09日