サクラの開花 一番乗りを競う ― 兼六園上坂、下坂
北陸新幹線が開通して、一気に到来 ―といった感じのことしの春。寒さが長引いた分、春の主役サクラにできるだけ早い次の到来を期待するのは人情からいって無理からぬところか。
ところで、国の特別名勝・兼六園で、毎年、開花の一番乗りを争っているサクラがあるのをご存じだろうか? 名園の外周・上坂(かみさか)にあるツバキカンザクラと、この坂と金沢城石川門前で接する下坂(しもさか)に咲くカラミザクラである。
実用向きのアクセス坂
上坂、下坂とも桂坂、真弓坂など園内の由緒ある坂に比べると、目立たない、地味なアクセス坂である。工事用道路として尻垂坂との間につくられた上坂(380m)、蓮池門通りから百間堀通りへショートカットする下坂(150m)。尻垂坂と接するあたりが名園の上坂口、石川門前石川橋のたもとが下坂口と呼ばれている。ともに実用向きの坂のため、風趣という点で由緒ある坂よりは見劣りがする。そこで花を添えるべく登場したのが二つのサクラだ。
ことしはツバキカンザクラ
ツバキカンザクラとカラミザクラのこれまでの勝敗は五分と五分。大相撲でいうと、横綱同士が千秋楽で全勝対決するようなもので、いま、まさに春場所、その時を迎えている。今場所はどうか。金沢市のホームページ「いいね金沢」の兼六園花便りで知られる城森順子さんに聞くと、ずばり、予想はツバキカンザクラの勝ち。3月17日に現地で確認していただいたのだから間違いない。昨年はカラミザクラの勝ちだったという。
ツバキカンザクラのつぼみが赤みを帯びていまにも破裂しようとしているのに対しカラミザクラのほうはまだ固そう。ツバキカンザクラは花弁が大きく開かず「抱え咲き」と呼ばれる。開花まで「あと2、3日かなぁ」と城森さん。追うようにカラミザクラが咲き、その年にもよるが、満開まで2週間ほどは咲いている。花をつける期間は他の品種が1週間ほどというから倍の長さ。楽しむ機会は存分にある。この二品種の1週間あとにヒガンザクラ系、さらに1週間あとにソメイヨシノが咲きはじめる。
ツバキカンザクラは椿寒桜、カラミザクラは唐実桜と書く。明治初年、中国から渡来したというカラミザクラは少し前まではシナミザクラ=支那実桜といった。いつの間にか支那が唐になったのは、時代を映している。
豪華に咲く
カラミザクラの子がツバキカンザクラといわれている。カラミザクラとカンザクラの交雑種がツバキカンザクラということだが、城森さんは自然交配とみている。オオシマザクラとエドヒガンザクラの交配によってつくられた園芸品種ソメイヨシノが豪華なところとこの話よく似ている。ツバキカンザクラも豪華だ。愛媛でハツビジン(初美人)、高知でユキワリザクラ(雪割桜)の別名がある。
大車輪の上坂
石川門の門前はかつて三叉路だった。加能郷土辞彙によると、文政3年(1820)以降、坂下門、紺屋坂門、新坂柵門間の往来を一般に許すことになった。坂下門は現在の蓮池門通り、紺屋坂門は尻垂坂下へ下りる紺屋坂、そして新坂柵門は尻垂坂上にそれぞれ面していた。文政期の竹沢御屋敷総絵図(玉川図書館蔵)には上坂が「役人往来」と書かれている。下坂は明治期の兼六園案内図(同)にようやく出てくる。
文政5年(1822)、加賀藩12代藩主斉広(なりなが)は隠居所竹沢御殿をいまの兼六園の千歳台一帯に建てる。斉広は2年後に亡くなり、竹沢御殿は天保元年(1830)から取り壊しが始まる。この間の工事に加え、廃藩後の混乱期に至るまで上坂は人と建設資材の出入りで賑わう。一方の下坂は明治43年(1910)、百間堀を埋め立てた百間堀通りの開通に合わせる格好で姿を現す。上坂を受けての下坂だが、周辺道路の状況変化に伴って設けられた下坂であり、便宜上だけの命名でないことはわかる。
早咲き人気を二分
ツバキとカラミ、どちらが先に咲くか、はこれからも花を愛する人たちの興味をかきたてるだろう。城森さんはいう。「わからないからイイのよ」。わからないから、咲いた時の喜びが大きいという。二つのサクラを咲かせる上坂と下坂。早咲き人気を二分して競っていることを知ってか知らずか、静かである。