金沢の坂道コラム

坂に人あり歴史あり

金沢城下「角場」考

金沢城下「角場」考

「鉄砲坂」という名の坂が東京には5ヵ所ある(横関英一『江戸の坂東京の坂』1981)。坂の崖下を削って鉄砲の稽古所である「角場」をつくった。金沢にこの名の坂はないが、角場となると、町名にこれを取り入れた町が9ヵ所もあった―。

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書いた日:2017年11月25日

陽のあたる二十人坂

陽のあたる二十人坂

小立野台に犀川へ向かうべくして崖を下りる二つの坂がある。明らかに、というか、あからさまに、というか、二つの坂は犀川に架かる二つの橋を目指して脇目も振らず下っている。白山坂と二十人坂である。

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書いた日:2017年10月24日

2017年10月24日放送、NHK金沢放送局『いしかわの壺』に出演します。

2017年10月24日放送、NHK金沢放送局『いしかわの壺』に出演します。

NHK金沢放送局で2017年10月24日(火)18時10分から放送される『かがのとイブニング』番組内のコーナー『いしかわの壺』に出演します。

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書いた日:2017年10月10日

懐旧の「大林区の坂・本覚坂」

懐旧の「大林区の坂・本覚坂」

「坂、坂、坂ってぇーけどそれがどうしたってんでぃ。こちとら上も下も真ん中も坂だらけでぃ。もっとも名めぇなんてねぇザコみてぇな坂ばっかしだけどよぉ。いけねぇってんかい。ってやんでぃ。べらぼうめ」

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書いた日:2017年09月29日

兵隊さんが通った白山坂

兵隊さんが通った白山坂

「牽強付会」という言葉がある。牽強も付会も「こじつけ」という意味である。地誌を遺した大先輩方がよくつかう。なぜにこれほど強い言葉をつかってまで自説の正当性を主張せねばならなかったのか―。

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書いた日:2017年08月06日

2017年7月17日放送、MRO北陸放送『レオスタ』に出演します。

2017年7月17日放送、MRO北陸放送『レオスタ』に出演します。

MRO北陸放送で2017年7月17日(月・祝)18時15分から放送される『レオスタ』番組内のコーナーに出演します。

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書いた日:2017年07月16日

桜坂物語 - 段丘の有為転変

桜坂物語 - 段丘の有為転変

「城中花見の場」として桜畠は造成された。いまでもそれは楽しめるのか。そんな思いで桜の季節、金沢城本丸につづく辰巳櫓(やぐら)跡に足を運んだ。眺めはまことに結構なのだが、肝心のサクラがないっ!

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書いた日:2017年06月26日

もう一つの帰厚坂 - その延長線上で考える

もう一つの帰厚坂 - その延長線上で考える

浅野川左岸を散歩していて、対岸の卯辰山の帰厚坂が川縁から直接、山に入っていたのではないか、と思える(見える)坂があった。バス通りとの接点から始まる現在の帰厚坂は、通りに裾の部分をちょん切られていた。

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書いた日:2017年04月29日

W坂は西へ移動した - 地誌と古地図から確かめる

W坂は西へ移動した - 地誌と古地図から確かめる

W坂は幕末期に切り開かれた「新坂」で、もともとは少し上ったところにある「名無し坂」が本来のW坂だった。W坂は、石伐坂、清立寺坂などの名を経て、吹屋坂と呼ばれたころにそばに新坂ができて、そちらへ乗り移る―。

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書いた日:2017年03月31日

愛と虚構の瓶割坂

愛と虚構の瓶割坂

瓶割坂のある野町界隈。旧市街の外側、犀川を越えた地域の持つ独特の趣きがある。歴史をつなぐポイントとでもいったらいいだろうか。奥州下りの義経一行が通ったかもしれない坂には、なんとはない哀愁が漂う。

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書いた日:2017年03月14日

常盤坂 続報-モミではなくヒマラヤスギでした

常盤坂 続報-モミではなくヒマラヤスギでした

常盤坂の途中にある芝生広場のシンボルのよう―と紹介してきたモミ(樅)の木は、実はヒマラヤスギであることが確かめられました。辺りを払う威厳に押された先入観のなせるワザ。お詫びかたがた、この機に卯辰山の木々について少々…。

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書いた日:2017年02月23日

改訂:坂道出典年表 ― 見えてきた金沢の形成過程

改訂:坂道出典年表 ― 見えてきた金沢の形成過程

金沢の坂道の全体像をつかむよすがとして昨年4月、「坂道出典年表」を作成しました。今回はその改訂版です。この9ヵ月の間に知り得た情報を盛り込み、一部坂名を追加するなど手直ししました。「坂」から見た金沢の側面です。

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書いた日:2017年01月30日