金沢の坂道コラム

金沢城下「角場」考

「鉄砲坂」という名の坂が東京には5ヵ所ある(横関英一『江戸の坂東京の坂』1981)。坂の崖下を削って鉄砲の稽古所である「角場」をつくった。金沢にこの名の坂はないが、角場となると、町名にこれを取り入れた町が9ヵ所もあった―。


『加越能の地名』No50(加越能地名の会2017.11.1発行)寄稿

藩政期、領国ごとにあった鉄砲演習のための「角場」。近所に角場の付く町名があったことを覚えている人も多いと思う。角場はどのように存続し、地名にまで同化していったのか。全体像はもとより加賀藩金沢城下に絞ってみても、研究機関による体系的なまとめはなされていないようである。手がかりを得るべく、地誌・古地図等を頼りに足跡をたどることから始めてみた。概括して一覧表にしたのが別表である。



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角場年表


火縄銃の歴史は、徳川による武家支配の時代とほぼ重なる。外様としての前田家がとった軍制は幕府とのつかず離れずの、言い換えれば最も平均的な構えであっただろう。足軽が専らとした鉄砲の修練を武士も担うことになり、戦が絶えた長い時期、「無為徒食」の批判も振り切って明治維新を迎える。金沢の角場はそんな中、昭和まで町名に名を遺す。

角場は城下の一角にあり、町名となっていく。ほとんどが足軽組地に隣接していたこともあるが、軍事施設ながら機密に触れない範囲で住民と接触していたであろうことが窺える。一つの角場に二つの呼び名があったという増泉と大豆田(まめだ)は、人びとがその地になにがしかの愛着を持って接していた証といえる。

場所がほとんど移動していないのも特徴の一つだ。表中、名前が出てくる(多い順に)石坂、増泉・大豆田、桜畠、川上、浅野、笠舞、森山、堀川は、古地図等と照合する限り近隣施設との統廃合はあってもほとんど動いていない。地域に溶け込んでいたことの裏付けだろう。動きがあるとすれば、外国船が列島周辺に現れ出し、2、3ヵ所だった角場が藩末には5-6ヵ所に急増することぐらいだ。

本年表は流れをつかむための概覧であって変遷の歴史をたどるものではない。ただ、なぜ「角」なのか。肝心ともいえる部分がいま一つはっきりしない。多くの地誌が角場発祥を伝える嚆矢としている『越登賀三州志』(刊本:石川県図書館協会)によると、1600年代後半に鉄砲の稽古所が角場と呼称を変えていったことが読み取れる。「銃的場」と書いて「カクバ」とルビを打っているあたり、いかにも事の始まりを告げているかのようである。

漢和辞典には「角」は「的」の意、とある。ならば「的場」でもよさそうなのだが、的場は弓矢のイメージが強くそのように使い分けている地誌もある。寛文七年金沢図と延宝金沢図はそれを区別している。ともに的場が描き込まれているのに対して、寛文図では桜畠角場が「鉄砲〇場」と書かれ、やや時が下る延宝図には桜畠、川上両角場がそれぞれ「〇場」とだけ書かれている。〇には「梁」に似た字が書かれているが、字体は異なる。「垜(あずち)」の崩し字とみられる。

垜は的を立てかける山形の盛土のことである。弓、鉄砲どちらにも使う。垜と同じ意味の射垜(しゃだ)という言葉もある。「垜場」の登場は銃的場をカクバと読ませた寛文-延宝-天和の時代(1661-83年)と重なる。角場が的場から離れていく流れが見えてくるが、なお、「垜」が「的」と「角」の間に入り込んだ経緯がはっきりしない。大聖寺藩の藩士同士が角場で起こした刃傷事件が「垜喧嘩」(1615年=天和元)と伝わるものの、垜が角の字につながる要素は見えてこない。

「カクは、あるいは『隠れる』などの語と縁のある陰地の義ではあるまいか」とする柳田国男説(『地名の研究』1968年初版)が近いように思われる。角場用地は急な崖や土手の窪地、用水・堀などの凹地が選ばれている。そこにある東京の坂は「鉄砲坂」と呼ばれる。表にある1663年の観音山稽古所は現在の卯辰山の崖地で、静明寺(材木町)裏の浅野川対岸(常盤町)にあったという。窪んだ様子といい広さといい、まさにそれらしい場所が現在もある。


浅野川河畔の角場跡か(7月写す)

浅野川河畔の角場跡か(7月写す)


略称(垜場の代替称)であり確立された名称ではないとする見方もできよう。ならば、実体としての試射場が明治の戸籍編成で町名として生き残った事実はどうとらえればいいのだろう。馬場のように垜場が庶民の生活圏に組み込まれていたことと関わりがあるのだろうか。最後まで残った石坂角場町、堀川角場町が昭和の住居表示法(「住居表示に関する法律」1962年=昭和37施行)で消えてはや半世紀の時が流れている。


鉄砲足軽の組地「石坂角場」があった北陸鉄道野町駅前

鉄砲足軽の組地「石坂角場」があった北陸鉄道野町駅前


駅舎から石坂角場跡方面を望む。駅前ロータリー、住宅街が広がる

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