金沢の坂道コラム

陽のあたる二十人坂

「自由ヶ丘の駅で下りていく道は、どこもゆるい上り坂の道になっており、南面しているので、その坂道にはいっぱい陽があたっていた」。石坂洋次郎『陽のあたる坂道』はこの書き出しで始まる。南面している二十人坂も陽があたる。斜面なので風通しがいい。暖かくて風通しがいいが、どことなく『陽のあたる―』的なざわめきも聞こえてくる…。

住宅地である。小立野台の崖地に貼りついた家々はその一戸一戸が満身に陽を浴びているように見える。台地から犀川に向かって下りる坂は、鉄砲足軽二十人組が居住したという古風なネーミングはともかく、国本昭二『サカロジー』にいう「土地の高低が備える気品」漂う坂である。

対の白山坂

延長380m。小立野通り石引2丁目から犀川大通り菊川2丁目へゆったりとカーブしながら下りる。辰巳用水の落とし水(加能郷土辞彙)の流れる勘太郎川をはさんで、白山坂(しらやまざか)が東側の対岸にある。車は上りの一方通行である二十人坂は、下りの一方通行である白山坂と対になっている。車の通行ばかりではない。天下分け目の関ヶ原(1600年)に前後する加賀藩草創期以来、旧二十人町と、山号を白山とする波着寺からきた旧白山町は何かにつけて対になってきた。

旧町名にちなむので二つの坂とも「藩政時代からある」とみられがちである。この誤伝を除けば二つの坂は“一卵性”といっていいほどまことに仲がいい。白山坂が1934年(昭和9)なら二十人坂は5年後の39年(同14)の完成である。どちらも昭和の坂である。それまでは崖で交通が途絶していたところを、日中戦争(1937年7月-45年8月)で巨大化した軍組織の連絡上の必要からつくられた。

上野に陸軍練兵場ができた小立野台には、寺町台の第九師団兵営・練兵場とを結ぶ兵員・物資輸送のための道路が必要だった。小立野台下部の出羽町練兵場とも近くなる。上は善光寺坂、下は新坂などを経由していたこれまでの時間的・経済的ロスは、戦況に照らしても緊急に解消する必要があった。二つの坂は崖を突き崩して造成された。

空中回廊

崖の下が主に畑地だった白山坂はよかったが、崖下に旧一本松町、旧揚地町があった二十人坂はこれを跨ぐ陸橋が必要だった。それぞれの町の天井部分にトーチカを思わせるコンクリートの頑丈な橋が架けられた。橋桁にはともに「昭和13年4月架」とある。旧二十人町が、滑り降りるように崖下の二つの町の上空を通った一瞬である。80mほどしか離れていない「一本松」と「揚地町」の陸橋は、どこかの市役所が造ろうとして市民の反対で取りやめた空中回廊に似ておおいに人目を引いたに違いない。


旧道へ下りる側道が至るところにある(左上は一本松陸橋。右端に80m離れて揚地町陸橋)


”昭和の遺産”揚地町陸橋。トーチカを思わせる頑丈な造りだ


陸橋脇に住む中田正一さん(82)は3歳のときに隣の一本松町から揚地町に引っ越してきた。陸橋の完成時だから、道が付け替えられたことに伴う区画整理に遭ったようだという。完成に合わせて陸橋と陸橋の間に10数本の桜が植えられた。坂に覆いかぶさるように満開になった桜の下を「兵隊さんがしょっちゅう通っていた」。車の少ない時代、ござを敷いて宴に興ずる者もいた。「ぐるり(周囲)は田んぼと畠だけだった」。


大型車両が通るようになって、数年前、道路側に伸びた桜の枝が伐られた。その後、新しい芽は出てこず中田さん宅脇の3本は枯れてしまった。残る老樹は10本余。若木が補植されているが、なかなか根付かないという。


二つの陸橋の間には桜並木が覆いかぶさるように茂る(7月写す)


ふらっとバス。市内4ルートのうち坂を上る唯一のコースだ


一方通行になるまでは車が転げ落ちたり、ブレーキが効かなくなった自転車がダイビングする事故があった。今は「ふらっとバス」が通るロングノーズののどかな一面を見せる。コミュニティーバスふらっとは市内4ルート。唯一、坂を上るふらっとがここで見られる。バス停は途中に3ヵ所ある。


地獄橋

波着寺の門前にかつて「地獄橋」と呼ばれる橋があった。藩政初期、橋の下に勘太郎川の水で水車を回し火縄銃の火薬である塩硝(「煙硝」の文字をあえて使わない藩独自の呼称)を製造する作業所があった。火災で大爆発を起こし上流の土清水(つっちょうず)に移るが、鉄砲足軽の“社宅”街が近くにあったのはその辺と関わりがあるのだろう。

「地獄」の意味するところは別として、勘太郎川で隔てられていた白山、二十人の両町をつなぐのはこの橋だった。それは、川に沿うように崖下とつなぐ白山町内のかつてのメーンストリート、今はその名も忘れられた小路(一部石段)へ行くための二十人町側からの貴重な連絡橋だった。小路もまた、旧石引町小(現小立野小)が金沢大学附属病院前にあった頃には崖下の子どもたちが近道に使うなど命脈を保ってきた。


二十人坂と白山坂を隔てる深ぁーい勘太郎川


町に坂ができたことで、二つの町はより結び付いた。二十人坂は犀川大通りを渡った先、犀川の下菊橋を渡り長良坂を上る。白山坂は上菊橋を渡り不老坂を上る。車社会となって、二つの坂は一方通行で役割分担した。所在地は昭和(39年)の新住居表示でともに「石引2丁目」になった。


夕暮れ時、下り坂の向こうに寺町台を見る


家並みの向こうに寺町台グリーンベルト


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