金沢の坂道コラム

兵隊さんが通った白山坂

白山坂。下りた先は猿丸神社(下り一方通行)

白山坂。下りた先は猿丸神社(下り一方通行)


しらやまざか

白山(標高2,702m)はことし開山1,300年を迎えた。親しみを込めて“お山”と呼ばれるこの山を東南に見るのが白山坂(石引2丁目-笠舞3丁目間約650m)。ただし、お山は見えない。見えないことが原因なのか、白山坂をめぐっては誤解が多い。節目の年、はっきりさせるべきは、はっきりさせておきたい。

「お山は『はくさん』、お宮と町名は『しらやま』―」と旧白山町時代からの住人、長岡次郎さん(85)=石引2丁目=は言う。昭和30年代、引っ越してきたばかりの長岡さんは長老からそう教えられた。お宮とは白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)。白山本宮のことである。お山とは違う呼び方をする。白山町は「しらやまちょう」、そこからの坂は「しらやまざか」となる。

1619年(元和5)、山号を「白山(しらやま)」とする波着寺が小立野に建立され、門前に町がつくられていく。藩政期、波着寺門前と呼ばれた町は明治に入り山号をとって白山町になる。加賀藩祖前田利家の信頼が厚かった波着寺は、その命を受けて白山比咩神社再興のため九頭竜川上流・一乗谷(福井市)から広坂(現在の兼六園内)に移されていた。

白山は見えない

「白山が見えるのか」。長岡さんは引っ越し早々、眼下に畑ばかりが広がる台地に立ってはるか彼方に目を凝らした。白山開山に向かう僧泰澄が通ったという獅子吼高原(後高山=649m)や倉ヶ岳(565m)にさえぎられて見えない。『サカロジー』は「この坂から白山は見えるはずだ」と書いている。山男の国本昭二さんにしてこの思い込み。方角(東南)は合っている。だから、建物が邪魔しているにせよ「見えるはず」となるのだが、白山の北西に位置する山々がすっぽり覆い隠してしまうことまではどうやらお気づきにならなかったようだ。

長岡さんは中学2年で初めて白山に登り、その魅力に取りつかれた。北陸鉄道山岳部時代には、登山道の整備などに汗を流した。白山登山はこれまで100回を超え、この春まで35年にわたってボランティアの自然解説員を務めた。齢50にして山登りを始めた筆者の敬愛する先生である。

坂下・猿丸神社までの道を分断して1988年(昭和63)に開通した小立野・笠舞線との交差点に「白山坂」の標識がかかっている。これが同線を指すと思っている人がいる。「しらやま」に「はくさん」―もろもろ含めこの際、しっかり整理しておきたい。


白山坂交差点。左の車が小立野-笠舞線とクロスする

白山坂交差点。左の車が小立野-笠舞線とクロスする


交差点下方から見た白山坂

交差点下方から見た白山坂


昭和の坂


もう一つ強調したい。白山坂は藩政時代からある坂ではなく昭和の「十五年戦争」中に出来た軍用道路だった。十五年戦争とは、1931年(昭和6)の満州事変から45年(同20)の終戦までを指す。白山坂はこの間の34年(同9)に完成した。波着寺付近までは道があったが、その先は崖で道が途絶えていたのである。

長岡さんに案内してもらった。波着寺前から南の二十人坂に向かう途中、真ん中辺りに小路がある。幅2m余。これが「昔のメーンストリートだった」と長岡さん。右に金沢大学附属病院が見える。メーンストリートだった証拠に、マンホール型の消火栓が道の隅にある。白山坂にはない。左へ進むと道は石段に変わる。下りると、片側だけに町がつくられたところからきたという一方町、転じて一本松町(現笠舞3丁目)に出る。崖を抜けるにはこの道しかなかった。皇国地誌に「或ハ死道トナリ、或ハ一本松ニ通ス」とあるのがこの道である。


崖を下りる昔からの道(上から)

崖を下りる昔からの道(上から)


崖を下りる昔からの道(下から)

崖を下りる昔からの道(下から)


戦時体制下、小立野台には上野の練兵場があり、少し下がって出羽町、“対岸”の寺町台には野田の、合わせて3練兵場(第九師団)があった。兵員、車両の行き来に新たな道づくりは急務となっていた。白山坂が出来て5年後の39年(同14)ごろには二十人坂が完工する。郷土史家園崎善一さんの『小立野校下の歴史』(2001年刊)に詳しいが、園崎さん自身、白山坂という言い方はせず「白山町の坂」と書いている。坂の新しさが窺えよう。


1941年につくられた150人収容の大型防空壕跡

1941年につくられた150人収容の大型防空壕跡


「父ちゃんが野田から出羽町まで行軍するというので、母ちゃんに手を引かれて道端まで見に行った」。70代男性は幼事(おさなごと)を昨日のことのように話す。太平洋戦争に突入した41年(同16)、今は白山坂交差点脇となった崖下に150人を収容する大型防空壕が造られた。石で塞がれた出入口が4つ、現在も残る。戦時、崖は大きく変容した。西崎欣寿さん(91)=笠舞3丁目=は犀川にかけての緩やかな斜面を前に「菖蒲が群生する沼地やった」と振り返った。


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