金沢の坂道コラム

暗がり・あかり・爪先上がり - 下新町の坂

暗がり・あかり・爪先上がり - 尾張町の坂

「ひがし」がたいへんな人気だ。金沢でひがしといえば、「おひがし」の東本願寺かお茶受けの「干菓子」と大概の相場が決まっていたが、近ごろはもっぱらお茶屋街の東山を指す。観光客が引きも切らぬ様子は、話に聞いた限りではあるが、かつての尾張町界隈の賑わいを彷彿させる。

その尾張町は、東山の目と鼻の先にある。下新町は旧町名復活運動で2009年11月1日、尾張町2丁目から独立した。ここに「暗がり坂」、「あかり坂」、そして「爪先上がりの小路」の三つの坂がある。東山観光のあおりか、この辺も賑わっている。老舗が多く、家並みにも路地にも昔の面影が漂う。三つの坂は、お茶屋の主計町(かずえまち)につながり、浅野川を渡って東山につづいている。なぜ、暗がりで、あかりで、爪先上がりなのか。泉鏡花(1873-1939)、木倉屋銈造(1911-2008)、国本昭二(1927-2005)、五木寛之(1932-)4氏の著作をひもといてその辺を探ってみよう。

新町は尾張町が膨らんだため分町してできた。三壺聞書に寛永12年(1635)の新町の火災の記録があるというから、前田利家の金沢城入城(天正11年=1583)から50年余しか経っていないのに新たに町建てしなくてはならないほど賑わっていたことになる。尾張商人を連れてきて住まわせた町だから尾張町なのだが、尾張町の人たちは近年まで「石垣下」と呼び、城に近いことを誇りにしていた。新町はその後、上新町、下新町に分かれ、昭和45年(1970)、ともに尾張町2丁目に町名変更となった経緯がある。

爪先上がりの小路

爪先上がりの小路は、国道359号線(旧北国街道)の浅野川大橋を渡って橋場町交差点の手前右の裏通りを入る。入るというより上るといった方がいいほど坂が眼前に迫る。下新町はここから200mほどの長さである。泉鏡花記念館があり、表通りに回ると「五木寛之文庫」のある金沢文芸館がある。

泉鏡花は下新町で生まれた。「わが居(ゐ)たる町は、一筋細長く東より西に爪先上(が)りの小路なり」と小説『照葉狂言』に書く。「両側に見よげなる仕舞家(しもたや)のみぞ並びける」が、一方の口は行き止まりになっていて人の往来は少なかった。入口の坂を「つまさき登り」と呼ぶ木倉屋銈造は、「往来なきを幸いに」この小路を「通人粋人おれきれき」がお茶屋へかよう通り道にしていたという。人目をはばかる通人たちは、鏡花が爪先上がりした道を逆コースにたどり、ある人は途中の暗がり坂から、またある人は“爪先下り”に下新町を出て主計町、東山ヘと急いだ。

人目をはばかる必要などない、と強弁する人には、この先、浅野川に架かる梅の橋、中の橋がどちらも大橋の人目を避ける人たちのための橋だったという説があることを付け加えておく。また、なぜ爪先で登らなければならないのかという理屈屋には、国本昭二が斜度計で測ったら8度あったことだけ伝えておく。思惑というものは人それぞれにある。それぞれに考えていただきたい。


爪先上がりの小路

暗がり坂


木倉屋は暗がり坂を「ひよどり越え」と呼んではばからない。そのあたまに「風流」の二文字がつく。「ウッス暗い横小路あり。久保市さん(久保市乙剣神社)の一の鳥居あり」と神社の入口に立った木倉屋は、「落ちゆく先はマサシクひよどり越え」と「粋で風雅な難所」を駆け降りる。

鹿しか越えないといわれたひよどり峠。平家が布陣する六甲山系一の谷を背後からつく奇襲作戦で、源氏の大将義経は「馬も四つ足、鹿も四つ足」と「ひよどり越えの坂落とし」を敢行する。悲壮感を逆手にとり、木倉屋は「艶福旦那ハン今宵もお忍び廓がよい」と茶化し、「人目を避けてのお社の、濡れたうらがわから表の廓へ抜ける通い路でゴザイミス」とシリアスに語る(『七百二十日(しっちゃくはつか)のひぐらし』)。ちょっと引きながら、それでいておおらかなのである。

ひよどり越えに関して、国本の見方は木倉屋と趣を異にする。「一人密かにお茶屋町に通う旦那の隠語ではない。群れをなして繰り込んだ若者たちの隠語だろう」と説く。その心意気について「義経の悲壮さに通じるものがあったのだろうか」とストレートに推し量り、暗がり坂は男たちの「けもの道でもあった」と断定する。


暗がり坂

そのうえで「若者たちにとっては(暗がり坂は)日常と非日常を繋ぐ坂でもあった」とし、「下り着く先が見えない坂」となんとはなしの不安を隠さない。「長さは50mもないのに、坂はふた曲がりもしていて先行く人の姿は見えない」のである(『サカロジー-金沢の坂』)。“先生”の生真面目な人柄がにじみ出ている。


そんなに大げさなことでもないんだよ、というのは鏡花だ。『榲桲(まるめろ)に目鼻のつく話』に「暗闇(くらがり)坂を下りると(中略)大川へ出るのであるが、人通りはめったにない。…心得ないものが見れば、坂とは言わず穴のような崕(崖)である」とある。巡査が見回りに来る。「人通りが稀で樹の下の薄暗さ、盗賊が昼寝でもしそうな場所」だからか―。ちなみに、榲桲とはカリン(花梨)のこと。

坂とは言わず、穴のような崖とは、言い得て妙である。五木寛之は『金沢あかり坂』で、暗がり坂のほかにもう一つ「あまり使われない坂」が近くにあり、あかり坂と命名される前の「名なしの坂」を「不意にぽっかりと穴のようなせまい石段」と書く。命名されたあとも「あの深い穴のような坂をおりていくのはいやだ」としつこく書いている。新旧二人の売れっ子作家が、別の坂のこととはいえ「坂」を「穴」呼ばわりしているのがおもしろい。

あかり坂

竹久夢二の絵のモデルのお葉のような芸妓りん也(高木凜)に「あなたを見て、ふっとイメージがわいた」と、町の人たちから坂の名前を考えてくれといわれていた老詩人。目を見張る凜に「暗がり坂に対して、あかり坂というのはどうでしょう」。「暗、と、明。泉鏡花にはあけの明星をよんだ句があります」ともいう(『金沢あかり坂』)。

久保市乙剣神社一の鳥居脇に「うつくしや鶯(ウグイス)あけの明星に」の鏡花碑がある。これで木倉屋のいう「名なし坂」に名がついた。

いや、それより前にもう一つ、名があった。この坂に「路地坂」の名を振ったのは国本だ。直線だと10mほどしか離れていないのに、暗がり坂の猥雑さからかけ離れ、「狭い道にぎっしりと鉢植えが並ぶ」「住んでいる人のにおいがする」金沢ならではの路地の一筋。「暗がり坂と区別するために、この坂を路地坂と呼ぼう」と命名を宣言した。1997年のことだ。筆者の知人にも「家々のお勝手(勝手口)を結んでいるのだから勝手坂でいいんじゃない」というのがいたが、根は同じなのだろう。


あかり坂

金沢あかり坂は原題『主計町あかり坂』で2008年に発表された。路地坂宣言から11年後のことになる。この11年、金沢は大きく変わった。観光地化が進んだし、しみったれた名前など消し飛んでしまうほど明るい風潮が好まれる時代になった。


おりるのを嫌った凜は、回り道をして石段をのぼっていく。凜がつぶやく。「あかり坂は、あがり坂―」。「夜の空が奇妙に明るく見えた」。さらに7年が経った。

(敬称を略しました)


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