金沢の坂道コラム

「あめや坂」伝説と“隠れ里”

あめや坂(山の上町-森山2丁目)にまつわる「あめ買い幽霊伝説」。子を思う母の執念とは別に、命をつなごうと力を尽くして立ち回る人びとの姿があった。藩政初期、膨張するマチからはじき出された“山奥の隠れ里”の住人だ。


建物の間から国道159号線を横切り右下へ下りる


描かれたあめ買い幽霊(道入寺蔵)=『嵐山光三郎 ぶらり旅』より

描かれたあめ買い幽霊(道入寺蔵)=『嵐山光三郎 ぶらり旅』より




『加越能の地名』No52「地名人」(加越能地名の会2018.11.15発行)寄稿


卯辰山山麓寺院群の西北端にある光覚寺(金沢市山の上町)、その門前に「あめ買い幽霊」伝説に由来するあめや坂がある。墓の中で生まれた赤子のため、母親が幽霊となって夜な夜な近くのあめ屋に現れる―。世に知られたこの咄(はなし)、地元に「山奥の隠れ里」説があることはあまり知られていない。あめを買いに来たのは幽霊ではなく生身の人間である―。その背景を探ると、藩政初期の金沢北部地域の成り立ちが見えてくる。


寺院群と民家の奥に卯辰山

寺院群と民家の奥に卯辰山


あめ買い幽霊伝説は説教「子育て幽霊譚」が全国に広まるなかで、あめ屋が多かった金沢で独自に語り継がれてきた。市の口頭伝承調査報告書(1981・84年)によると、その数11話。あめ買い幽霊のほか、もち買い幽霊あり、男の幽霊あり、仇討ちあり。赤子は成人して北へ旅立ったり名僧になったりする。内容はさまざまだが、霊験奇瑞を語るという点で一致する。口承の主な伝達地は光覚寺と立像寺、西方寺(ともに寺町)、道入寺(金石西)の4ヵ寺。このうち地名になっているのは光覚寺のあめや坂だけである。


森山の通りへ抜ける

森山の通りへ抜ける


山腹に展開する光覚寺の墓地

山腹に展開する光覚寺の墓地


隠れ里説は幽霊説を否定し、咄を現実に引き戻そうとする。「おそらくは」で始まる咄は概要次のとおりである。


―夜の暗さを利用して、山奥の隠れ里の人たちが乳の足りない赤子のために町端のあめ屋へ水あめを求めに来た。異様な訪れや世慣れぬ身ぶりに不審を抱いたあめ屋の主人が、その姿を見極めたいと後をつける。その存在を知られまいとした村人は、力を尽くして墓の間に消えたみすぼらしい女性を幽霊と見誤らせ、この世のものでないと信じ込ませた―
(『もりやま-森山校下町会連合会50周年記念誌』2009など)

あめ買い幽霊伝説が生まれた時期について、藤島秀隆氏(1935-)はその著『加賀・能登の伝承』(1984)の中で、立像寺の伝承をもとに「寛文11年(1671)ごろ」と推定している。文献上の初見は金澤古蹟志を著した森田平次の先祖である加賀藩士森田盛昌の『咄随筆』(1727)である。盛昌が金沢城三の丸番所で聞いた咄を筆録した。現代から遡ることおよそ350年、寛文(1661-72)とはどんな時代だったのか。

1583年(天正11)、金沢に入城した利家は、城郭の北側を正面として武士、町人の城下集中を奨励した。大手門が設けられ、尾張町、橋場町と町立てが進む。犀川、浅野川の間に城下町が形成されるなかで、浅野川以北には現銀といくらかの自由を求めて能登、越中など周囲の農村から多くの人が移り住んできた。住宅を建てるために必要な土地を相対契約で借り請け、農地の私的な借地である相対請地が発生する。1659年(万治2)には相対請地勝手令が公布される。都市へ流浪する貧農は増え続け、相対請地は63年(寛文3)には城下総面積の13%に拡大する。

「寛文ごろから次第に貨幣経済が農民生活に浸潤しはじめる」と本岡三郎氏(1911-2002)はその著『金沢北郊の変貌』(1962)に書いている。貨幣経済の必要に迫られた農民は「いろいろな理由をつけて町人との間に耕地を貸借し、貨幣を手に入れることに努めた」。その一方で「貧富の差はますます大きくなり、数々の不作、凶作、虫害、災害、異変などによって農民の地位から転落するものが増加」する。

これに拍車をかけたのが1651年(慶安4)に施行された改作法だった。凶作で荒れた農村を再建、年貢収取の安定化を狙いとしたが、十村役人らによる増徴体制は次第に農民を苦しめていく。伝説誕生の寛文11年には、村ごとの草高(米の収穫総額)の変動や農民個々の持高(石高)を記載した「品々帳」が十村から改作奉行に提出されている。災害も重なった。35年(寛永12)には市中1万余戸を焼く大火が地域を襲っているし、68年(寛文8)には浅野川が氾濫、223戸が浸水し、死者78人を出した。自らの防衛策を持っていなかった当時の農民生活は窮するばかりだった。

マチを離れて山奥に隠れ住まざるを得なかった人びとを生む要素は多分にあった。それでは、隠れ里はどこにあったのか。山裾にあるあめや坂の頭上は卯辰山である。木戸番を置き、往来を厳重に管理されたという山に、たとえ山奥であっても住み続けることは困難であろう。だが、そこに「村人」がいて、村に生まれた新しい命を力を尽くして守ろうとする動きがあった―。一帯は城下の中心部からみればカワムコウである。そんな外町に藩の十分な施しはあったのか。偏見はなかったのか。詮索無用の伝説に、つい踏み込んでしまう隠れ里説である。


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