金沢の坂道コラム

塩硝坂は2つあった - 五箇山への「塩硝の道」発着点

昭和の塩硝坂

昭和の塩硝坂


火縄銃に使う黒色火薬の原料「煙硝」。その実体は真っ白な粉末だ。塩のようでもあることから「塩硝」と書いて目をくらます。外様である加賀藩の幕府への気の遣いよう。火薬? さような物騒なものではない。塩である―。

辰巳用水に沿う約11万7,000㎡の藩営土清水(つっちょうず)製薬所。塩硝蔵とも呼ばれた火薬製造工場である。領内はるか35㎞先の越中五箇山でつくられた塩硝を運び込み、ここで硫黄と木炭を混ぜ黒色火薬にした。塩硝坂は東の五箇山に向かい、塩硝蔵の前の用水沿いに南北2ヵ所あった。小立野段丘の急坂。歴史の道「塩硝の道」の発着点にあたる。五箇山衆には往路の最後の坂であり、復路の最初の坂だった。現在、2つの坂は廃道となり、中間地点にモニュメントのような昭和の塩硝坂がある。

平成の発掘

塩硝蔵は1658年(万治元)、前年に石引・波着寺前にあった小立野水車合薬所が火災で焼失したため、辰巳用水を遡った土清水につくられた。施設の性格上、一次資料はまったく残されていない。崎浦公民館に塩硝の道検証委員会(発足当初は塩硝の道研究会)ができたのは1997年(平成9)のことだ。「せめて石碑だけでも」。畑に変わった跡地を眺める地元の人たちの熱い思いがあった。上平村・平村・利賀村・城端町・福光町(いずれも富山県南砺市)と金沢市を巻き込んでの資料調査と踏査が始まった。


橋の礎石と樹間を上るわずかな踏み跡が残る下の坂

橋の礎石と樹間を上るわずかな踏み跡が残る下の坂


柿と梅の畑になり、痕跡がほとんど消えた上の坂

柿と梅の畑になり、痕跡がほとんど消えた上の坂


金沢市埋蔵文化財センターの発掘調査も行われた。「遺構が地下20-30㎝から現れた。検証通りの姿であることに驚き、感動した」と会長の谷内賢正さん(90)=涌波1丁目=。現場へは毎日のように足を運んだという。広大な敷地は火災や爆発事故による被災を最小限に食い止めるためのものだった。現在の涌波町、土清水町、大桑町の一部。兼六園の広さに匹敵する。導水のための搗蔵(つきぐら)や塩硝を蓄える蔵、調合所などが点在する。周囲は堀や柵で固められていた。200年以上にわたって稼働し、1871年(明治4)、廃藩置県で消滅する。


「塩硝を運ぶ牛」(堀岡他美子さん画 )

「塩硝を運ぶ牛」(堀岡他美子さん画 )


1泊2日かかったという塩硝の運搬にはもっぱら牛が使われた。120㎏の荷を背に、山河を往復した。8日を要したという品質検査の間は坂上の草原に放牧された。帰途の第一歩である塩硝坂は匍匐(ほふく)前進よろしく前足を折り、肘で上った。馬にはできないことだった。

使い分け

1930年(昭和5)、山手の末町に浄水場が完成する。水道管が塩硝蔵跡の中央部へ下りることから、新たに坂が設けられた。県道小原土清水線・土清水3丁目から涌波1丁目への幅3m、長さ50m。杉と竹の林の中を121段の石段が通り抜ける。現在の塩硝坂である。木橋が架かり、流れに沿った遊歩道が風情を添える。既に使われていなかった2つの坂はどうなったか。その位置は、新しい坂から80mほど上流(南)と100mほど下流(北)にある。上の坂は、調査時点で一部が確認されたものの、現在は柿と梅の畑になって見る影もない。下の坂には橋の礎石が一部残り、踏み跡が樹間に緩やかに上っている。

塩硝の道は、ブナオ峠(南砺市)など4ルートを経て金沢に入り、湯涌、二俣で大筋2本に集約される。調査報告書(2002年)によると、終盤、このうちの1本は現在の下田上橋付近で浅野川を渡り、段丘の野坂を上っている。金沢城へ戸室石を運んだ既存ルート・石引往来の相互利用である。塩硝は黒色火薬となって藩の需要に応え、時に金沢の外港宮腰(現金石)から船積みされて他藩へ移出された。その時々、2つの坂はどのように使われたのか。報告書は「使い分けがあったかどうか、今後調査を要するところである」としている。


2本の坂(上部)を描いた略図(後藤家文書『土清水製薬所絵図』より)

2本の坂(上部)を描いた略図(後藤家文書『土清水製薬所絵図』より)


夢見る「復元」の日


天保七年(1836)『辰巳用水長巻図』の塩硝御蔵付近部分図(県立歴史博物館蔵)

天保七年(1836)『辰巳用水長巻図』の塩硝御蔵付近部分図(県立歴史博物館蔵)


塩硝はわが国では天然のものがなかった。火縄銃は伝来したものの、火薬の原料がなかったのである。藩は研究の末、五箇山の地に着目する。麻畑の黒土、生命力の強い山野草、そしてカイコの糞。これらを混ぜ合わせて床下に寝かせ、5年をかけて塩硝土をつくる。これに水と灰汁(あく)を加え、煮詰めて精製する。繰り返し煮詰めることで純度を高めていく。床下の高い合掌造り、屋根裏での大量の養蚕も作業には好都合だった。飛騨や信濃、出羽などでもつくられたが、砲術伝書に「加賀は第一品」と賞されるほど五箇山産は信用を得る。

塩硝坂はいつからそう呼ばれるようになったのだろう。文献には坂があったことは書かれていても坂名までは記載がない。金沢市の『城下町金沢学術研究』(2010年)にようやく「塩硝坂から運ばれていたとされている」と出てくる。だれ呼ぶともなく付けられた名であったためと思われるが、かつての塩硝街道に替わって塩硝の道という呼び方が定着したこと、坂がその発着点であったことが大きいようだ。坂名が”市民権”を得るには時間がかかる。

「ここに塩硝蔵ができたのは地理がおおいに関係している」と谷内さんは言う。山は険しく距離は遠いが、城下に近く動力源の水車が回せる土清水が最適の地だった。硫黄は立山で採掘するなど原料はすべて領内で賄えた。その規模から一時は200㌧を超える塩硝の保管があったという記録もある。辰巳用水の底に石を敷いて傾斜を強め、流水を加速させ水車の回転を速めていた。今も意識的に幅を狭めた一部に急な流れを見ることができる。一定の成果を得た今、塩硝蔵跡は史跡公園として整備されることになっている。廃道となった2つの坂は復元の日を夢見ているかもしれない。


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