天神坂はけものみち ― 消えた男坂・女坂
「天神坂はいま小立野・鈴見道路(小立野鈴見線)の建設で別の坂のように生まれ変わろうとしている」と国本昭二さんが『サカロジー』に書いたのは1998年(平成10)。「変身する坂」とサブタイトルがついている。実はこの坂、いまを遡ることおよそ130年、明治20年代にも大変身を遂げている。現在の天神坂はほんの脇道で、本道は天神坂男坂・女坂と呼ばれた2本の坂だった。いまは消えてしまった参道が別にあった。脇道は「よく言えば」であって、実態は「けものみち」同然だったようだ。
幕末の絵図に明記

図1 男坂・女坂(中心点右上)が描かれた「安政頃金沢町絵図」

図2 男坂・女坂(中央下)を明記する旧与力町の絵図
『安政頃金沢町絵図』(1854-59年・石川県歴史博物館蔵=図1)に東から西へ上る2つの坂が描かれている。かつての田井天神社、現椿原天満宮(天神町1丁目)の脇を上る坂から枝分かれして、加賀藩与力の組地であった旧与力町(宝町・金沢大学附属病院)へ上る。絵図ではともに「天神坂」との説明が付いているが、上りに向かって右が通称男坂、左が同女坂とされる。直線的な男坂に対して、女坂は緩く右へカーブしている。男坂・女坂が明記された元治元年(1864)作成の絵図(「寺尾太郎兵衛」の銘=図2)も伝わり、これを補足している。
地誌としては、藩政末期の弘化4年(1847)に没した元藩士柴野美啓の書と伝わる亀の尾の記が詳述している。「田井村(現天神町、田井町など)より小立野に上る道三条あり。女坂・男坂皆(ともに)與(与)力町へ登る道にして急也。雪の頃足駄(高下駄のこと)にて中々と通りがたし。心得べし。今一条は天神社門前地に添うて登れば、美作守下邸の方へ登る也」。加能郷土辞彙が「もと男坂・女坂等の三坂があり、惣名を天神坂と呼んだ」としているのはこれに呼応したものだ。温知叢誌は「道三条」に触れていないが「坂路狭く急勾配にして、樹木鬱蒼昼尚暗かりし」としているのは最後に残った現在の天神坂を指し、男坂・女坂はすでに消えたことを意味している。明治から大正への時の流れが感じられる。

現在の天神坂から分かれて左へ男坂・女坂は上っていた

元の男坂から見る天神坂。右の石垣は元女坂分岐の名残りか
姥(ばば)坂という坂もあった。「(天神町)1丁目の中程より、元鶴間町(現小立野5丁目・金沢美術工芸大学)へ登る」坂で、「現在廃止の姿なり」と温知叢誌。天満宮境内北側の崖を上っていたらしく、あまりに急なため使われなくなった。こちらのほうは近年まであったから、年配の人なら名前ぐらいは憶えている。爺(じじ)坂はなかった。
田井天神への参道
男坂・女坂はいつごろからあり、いつまであったのだろう。「いつから」に関してはそのあたまに天神坂の冠が付く以上、田井天神の遷宮を抜きにしては語れない。賢坂辻の項(2019年6月11日付『「坂」より「辻」なのだ―賢坂辻のいまむかし』)で書いたように藩政初期、田井天神は旧田井村とともに賢坂辻から現在地へ引っ越してきた。当初は段丘上にあった一向一揆の拠点のひとつ・椿原の砦の跡地にあったが、のち段丘下に移り、1635年(寛永12)社頭を造営した。このとき参拝のための2つの坂がつくられたとみていいだろう。前には城下と越中南砺地方を結ぶ福光往来(二俣往来、オコ谷往来とも)が通るが、後ろには道らしい道がなかった。
「湯島天神(東京・文京区)のように、起伏の多いところに建つ天神さん、寺社に男坂・女坂はつきものだったようです」とボランティアガイド17年の紺谷啓さん(83)=天神町2丁目、いしかわ観光特使=。金沢城や城下を築くための土取り場だった坂の上は小山が均されて宅地(土取場町)になり、藩政期には与力の組地ともなった。一帯は鶴間坂(牛坂)から馬坂、八坂辺りまでを含めて崖地の上と下に住宅が立ち並んでいる。近道をして坂ではないところを上り下りする人が絶えず、坂下に住む若村勝美さん(74)=同所=は近所の人たちがこれを見て「気色悪い」と話していたことを思い出す。嫁に来たばかりの51年前のことだ。人は道なき道に道をつけるのがお好きのようで…。
刑務所と大学病院、そして小立野トンネル

坂の上(㊨金沢大学医学部㊧金沢美術工芸大学)

坂下の旧福光往来を行く金沢マラソン(2018.10.28)
いつまであったのか。多くの人は金沢刑務所がこの地にできたことを男坂・女坂終焉のときに挙げる。刑務所は現在の田上町へ移転するまでは美大の地にあった。“明治5大監獄”の一つであった前身の金沢監獄は1895年(明治28)に着工、12年の歳月をかけて完成する。“刑務所裏の五木さん”こと五木寛之が「異様に高い煉瓦(れんが)塀」(エッセイ『小立野刑務所裏』)に驚いた煉瓦塀の煉瓦は、高岡から来た職人がここで焼いた。煉瓦を焼くための薪や砂利は地元の人たちが労力奉仕で運んだ。
刑務所に前後して県金沢病院(金沢大学附属病院)はじめ、同大の医・薬・工学部の母体となる教育機関が立地、天神坂周辺はにわかにあわただしくなる。かつてのけものみちは工事用の資材運搬のため拡張整備され、様相を一変する。その陰で、男坂・女坂はすたれ、やがて荒れた林になって一部を残し消滅する。「女坂を上がり、薬専(薬学部)の横を通って終点(小立野電停)へ出る」のが一つのルートだったのは紺谷さんの父の代までだった。もう一つ、失ったものに清水(しょうず)がある。大病院の建設は小立野台の豊かな水脈を断ち切った。紺谷さんの母が紺谷さんのおしめを洗った阿弥陀ヶ清水も1955年(昭和35)ごろには涸れた。
天神坂は生まれ変わった。「朝夕、編み笠に赤茶色の囚人服を着た人たちが縄につながれて行き来」(昭和61年度小立野婦人学級『いし曳』)した坂の下り口、そこにあった天満宮の裏山・通称天神山が切り崩された。田井町から医王、戸室の山まで展望できるようになった。冒頭の都市計画道路・小立野鈴見線は、自然保護のため山間地と市街地を結ぶけものみちを残しトンネル化した。けものたちはトンネルの上を行き来する。町にはニホンジカやイノシシ、タヌキ、ときにクマがいまも出没する。