金沢の坂道コラム

虎口(こぐち)の坂 - 香林坊坂と枯木橋坂

城下の出入り口を虎口(こぐち)という。「小口」とも書き、ここへ来ると急に狭くなることからきている。人びとの出入りをチェックし、戦ともなれば兵を押し出し、寄せ手に迫られると防御の要となった。これを(ここう)と読むと、虎の口=きわめて危険なところ、となる。危険なところは、見方を変えれば大事なところでもある。

藩政期、虎口に坂があった。河岸段丘を均してできた香林坊坂と枯木橋坂。金沢城の外郭に位置し、城下へ出入りする南と北の玄関口となっていた。香林坊坂には香林坊橋があり、その下を西外惣構となった犀川支流(現鞍月用水)が流れていた。枯木橋坂には枯木橋が架かり、下には東内惣構となった九人橋川が浅野川に注いでいた。2つの坂は城下を通り抜ける北国街道(現国道159号線)上にあり、番所と木戸、高札場が設けられて、金石通りに面した西外惣構の「升形」とともに城の防衛拠点とされた。


香林坊坂


香林坊坂

香林坊坂


香林坊橋は、僧香林坊がその名の由来とされる。話は、織田信長に滅ぼされた一乗谷(福井)の朝倉義景の時代・安土桃山にさかのぼる。朝倉の家臣が諸国に逃れていくなかで、一人は山越えして石川郡倉谷村(現金沢市倉谷町)に住み、一人は比叡山に逃れて仏門に入る。倉谷から片町に移り住み薬種商を営んでいた向田兵衛と、北陸路担当となった僧香林坊は再会、交流を重ねるうち香林坊が入り婿して親子となる。

向田家は妙薬の目薬を開発。二代目となった香林坊は加賀藩初代藩主前田利家にこれを献上して名をあげ、「尾山(御山)といえば目薬の香林坊」と評判になる。その死(元和2年=1616)により香林坊は家名となる。近くに小橋天神の社僧道安が住んでいたから道安橋、高野山の宿坊光林坊があったことに因んで光林坊橋とも呼ばれた橋は「知らず知らずのうちに」(『香林坊物語』本光他雅雄、1994年)集約されて香林坊橋になる。


2つの犀川


藩政初期、犀川の流れは2つあった。『城下町金沢学術研究1-城下町金沢の河川・用水の整備』(金沢市、2010年)によると、犀川は当時、大橋上流の城南・法島町付近で分岐、大橋下流の大豆田大橋付近で合流していた。流れは延長約4km。分岐点は鞍月用水取入口に比定される。北国街道に架かる本流の橋は大橋、支流の方は小橋といい、香林坊橋とも呼ばれた小橋は、城側の石浦町と、2つの流れにはさまれて氾濫原となった片町とを分けていた。


加賀藩年中行事図絵『香林坊の木戸』(金沢大附属図書館蔵)より

加賀藩年中行事図絵『香林坊の木戸』(金沢大附属図書館蔵)より


その中央部は広い中洲になっており、中の島とも呼ばれた中洲へは渡し舟が人や物を運んだ。河原町、立町(竪町)と呼ばれた場所に道路が付けられ、人が常駐するようになる。浸水の恐れのある中洲には初め、宅地を避けて芝居小屋や遊興の小屋が建てられた。寛永8年(1631)の法船寺大火後、これらの小屋は追われ、中洲は治安上の問題も絡んで急速に屋敷地に変わっていく。大火を巡る加賀藩史料にはすでに犀川は本流に一本化されている記述があり、その時期は大火より10年ほど前の元和(1615-24年)-寛永(1624-44年)初期。一本化に併せて城下の基盤整備が進められていたとみられる。


いま、香林坊からは南に向かって柿木畠へ下りる坂と、西に向かって長町へ下りる坂がある。109ビルのG階(グランドフロア)入り口辺りには大神宮へ上る坂があったが、ビルに飲み込まれた。大神宮周辺には映画館や飲食店があり、小広場ではときにガマの油売りが声を張り上げていた。余韻に包まれて下った坂は、わたしの思い出のなかだけのものになった。G階とは地下ではないという意味である。香林坊三差路に面した1階入り口は国道、裏のG階は市道につながっている。消えた坂には1階分の段差があったことになる。


枯木橋坂


枯木橋坂

枯木橋坂


枯木橋の由来にも信長が関係している。信長の命を受けた佐久間盛政が一向一揆勢力と対峙、久保市乙剣宮(くぼいちおとつるぎのみや)の社領が焼き払われ、樹林が枯木となっていつまでも残っていたので橋の名になった。金澤古蹟志によるものだが、ほかに橋の傍らに枯木が一株あったから、とか、脇にあった榎が枯れてそのままになっていた、とする説があって、市が現地の小公園に設けた説明板にはこの3説が列記されている。

橋は当初、山中に架かる丸木橋のようなものだったらしく、1639-44年(寛永16-正保元)に描かれたとみられる『加賀国図』(東京大附属図書館南葵文庫蔵)には、浅野川大橋は描かれていても枯木橋はない。枯木橋の名が知られるのは、浅野川の河原に家屋を岸にもたせかける「掛けづくり」の仮屋で商売していた土地柄が、大橋を中心に発展していくさまと軌を一にする。一帯に土地が築かれ、掛けづくりの仮屋は2代藩主利長によりつくられた東内惣構周辺に移る。町はずれに位置し、農村部との交流が頻繁だった枯木町は掛作(かけづくり、「懸作」とも)と呼ばれて町場化。橋場町となって、坂のある三差路周辺は藩内随一のにぎわいを手にする。


掛けづくり


金沢大元教授水上一久(みずかみ・いちきゅう)氏の論考『城下町金沢の職業構成-文化八年金沢町方絵図名帳による考察』(1961年)がある。文化8年(1811)といえば町人文化の花開いた時期であり、商売もまた繁昌を極めた。惣構を背にした一角の店舗はほとんどが古着商である。古手屋と呼ばれ、古道具屋、古金商とともに市民生活を反映して商家の圧倒的多数を占めていた。資源の少ない時代、一度きりで捨てるという概念はなく、擦り切れるまで使うのが昨今のリサイクルと違う。

古着を掛ける-現在の貸衣装店に通じる意味合いも「掛けづくり」にはあったようだ。「とくに男子の礼装を主体」とし、武士では日々の登城や参勤交代の道中で着用された。町人はもっぱら祝祭の晴着に使った-と『尾張町歴史散策』(尾張町商店街振興組合・尾張町若手会、1987年)にある。古着がいかに重宝されたかがわかる。掛けづくりの仮屋商法についても「通りから(店の中が)見える」、「往来しやすい」とオープンさが受けたことを伝えている。


惣構沿いに古手屋が並ぶ枯木橋付近(『城下町金沢の職業構成』より)

惣構沿いに古手屋が並ぶ枯木橋付近
(『城下町金沢の職業構成』より)


枯木橋と香林坊橋の木戸はとくに「惣門」と呼ばれていた。外囲いにある正門である。『城下町金沢の職業構成』は職業の一つ「惣構橋番人」についても触れている。内惣構は「その30余ヵ所の木戸と柵戸を閉ざせば、いかなる犯人も袋のネズミとなる仕掛け」になっていた。治安が安定すれば民力は増す。橋番人を職制の惣構肝煎(きもいり)から引き離して町奉行の管轄下に置いたこの時期は「町人自治上の発展期とみてよいであろう」と水上元教授。ころは維新前夜。2つの惣門はやがて来る時代を先取りしていたのかもしれない。


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