兼六園十一坂
歩く金沢観光が流行っている。「町歩き」という。バスで通り過ぎるだけの観光とは趣を異にする“足で確かめる”体験型の観光。学習といってもいいだろう。よし、それなら―と兼六園の坂道紹介を思いついた。総面積11.4ha。2時間もあれば一回りできる広さだ。
「金沢の坂道」としては兼六園を抜きにしてサカロジーを語るわけにいかない。だが、意識しなければならない“壁”がある。公園とは違う「庭園」なのであり、国の「特別名勝」という格調もある。ここはひとつ、兼六園研究の第一人者、元石川県兼六園管理事務所長、下郷稔さん(1932-2012)にご登場願おう。筆者が昔、『兼六園歳時記』の執筆をお願いした経緯もある。
そのなかで下郷さんが記している。「兼六園は傾斜地につくられているために、いくつもの坂があり、それぞれに名前が付けられている。それらの名称の由緒を知るのも、兼六園を散策するときの楽しみの一つになる。また何かの機会に、そのほかの坂の名についても書いてみたいと思っている」(「紺屋坂」より)。遺志となったこの言葉を受けたものに、下郷さんが監修したHP『石川新情報書府 兼六園図鑑』がある。本稿はこれらを手がかりに作成した。
兼六園十一坂
かつての正門・蓮池門から入ってすぐの松涛坂からスタート。時計回りに園内から外周へとご案内する
園内
松籟を聴く 松涛坂(しょうとうざか)
蓮池門口(れんちもんぐち)に立つと目の前に広がる幅広の坂。アカマツ、シイノキなど大木が覆いかぶさって上空をさえぎる。風がなくとも松籟(松に吹く風)を聴く思い。樹間の風を涛(なみ)ととった先人の感覚に脱帽する。辺りはかつて蓮池庭(れんちてい)と呼ばれた。延宝4年(1676)、加賀藩5代藩主綱紀が城の向かいのこの地を庭園化した。兼六園の歴史はここから始まった。
坂上で右に折れ、瓢池のほとり、夕顔亭を背に栄螺山(さざえやま)へ向かう。山の下の園地に「これは僕には過ぎたものだ」と芥川龍之介が絶賛した茶屋・三芳庵別荘があった。室生犀星が県庁と広坂警察署(現中警察署)から臨時の許可をとり芥川のために用意した宿だった。池、滝、松籟…。「風流おん察し下され度候」。翌朝、友人あてのはがきに芥川はこうしたためている。
不老不死 不老坂(ふろうざか)
途中にフジ棚が掛かる。フジの木の旺盛な成長ぶりから、不老の樹木にあやかって名づけられたと伝わる。5月の末、紫の花房が艶やかに垂れ下がる。上りきった園地の先端には中国原産のサンザシの木。春に白い花、秋に赤い実をつける。
一帯を常磐岡(ときわがおか)という。上に園内最大の池・霞ヶ池がある。流れ落ちる曲水は「段(を)なし清流走る白龍湍(はくりゅうたん)」と「兼六園かるた」(「を」)に詠まれる。白いしぶきは斜面に張り付く苔の緑の間を縫って、樹陰に段差の美を描く。園路を上りつめると、池のほとりに出る。唐崎の松、徽軫灯籠(ことじとうろう)周辺の喧騒から50mほどしか離れていないのに、静かである。
普段は坂の中ほどで閉鎖されている。サクラの花見ごろなど無料開放時には開放される。
老樹とひこばえ 桂坂(かつらざか)
兼六園全史が明快に書く。「その坂の右手にカツラの古木あるを以てその名を認められる」。樹齢が推定できないほどの老樹である。根元から数株のひこばえがハート型の葉をつけ、世代交代を告げている。全史はさらに説く。「カツラが園設置以前からの野生とすると、この付近もまた尾山(金沢の旧名)の最も古い俤(おもかげ)として貴重である。犀川流域に現在みられるカツラの野生は駒帰(こまがえり)まで遡らねばならない」。駒帰は20kmもの上流域である。
坂を上ったところに桜ヶ岡が広がる。その名のとおりソメイヨシノザクラを中心に桜木が多く、満開時には「一目千本」、丘陵一帯が薄紅色に染まる。サクラの開花宣言の標準木も金沢地方気象台に移るまではここにあった。日露戦争(1904)のあとに植えられたというソメイヨシノは、その寿命、人と同じといわれながら、百十年を超した。
梅の香ほのか 随身坂(ずいしんざか)
坂口にある金沢神社の門に鎮座している随身(衛兵)の像からこの名となった。神社前から成巽閣(せいそんかく)の裏門へとつづく。上りきった園地にビロードのようにヤマトフデゴケが敷き詰められ、辺りに江戸の風情を漂わせる。「兼六園かるた」に「紅(くれない)の梅の香ほのか随身坂」と詠われる。近くに梅林がある。
成巽閣は13代藩主斉泰(なりやす)が母・真龍院の隠居所として建てた。裏門は赤門である。斉泰の嫁になった溶姫は将軍家から嫁ぎ、婿の父である12代斉広(なりなが)は将軍家から嫁をもらうときのしきたりに従って江戸本郷の加賀屋敷に朱色の御守殿門を構える。東大の赤門はこのときのもので、成巽閣の赤門はそのミニチュアであるという。母への気遣いがうかがわれる門である。御殿の二階座敷の壁に塗り込まれた群青色は、北陸新幹線の車体の色に採用され“新幹線ブルー”と呼ばれる。
コマユミ 真弓坂(まゆみざか)
広坂通りから入って、瓢池に向かう坂。左手の園地に咲くコマユミに由来する。人の背丈ぐらいの高さ。5月下旬に薄い若草色の花を着ける。近くにマンサクがあり、2月ごろに細く黄色い花を咲かせて、梅とともに「兼六園の春」の訪れを告げる。お城の方向に弓なりになっていることから名付けられたという説もある。
入口に斜めに張り出した大きなアカマツがある。雪吊りのころはひときわ目立つ。間口の広い坂は、町に向かって開かれた現代の兼六園の姿勢を示しているかのようでもある。いまでこそなだらかな坂だが、藩末のころまでは坂はなく城下が一望できる高台になっていた。物見所があり、祭礼や盆正月などに繰り出す町方の行列を藩主や奥方、子女たちが見物した。
香林坊の繁華街は目と鼻の先。昔もいまも町の賑わいが気になる坂である。
有為転変 長谷坂(はせざか)
真弓坂を上り、瓢池の裏に回って栄螺山、霞ヶ池につづく。いまは時雨亭が建つ辺りから梅林周辺までの地は明治維新の際、2代目金沢市長・長谷川準也氏が所有した。この人、なかなかのやり手だったため、一帯は大きな変遷を余儀なくされる。邸地から空き地になり、そこへ県立図書館、児童苑、野外集会場…。「識者以テ遺憾トス」(温知叢誌)ることも起きる。
明治初期に生まれた金沢の企業のほとんどに氏の息がかかっていた。その多くは負債を抱えて失敗に終わる。明治26年(1893)、長谷川氏は市長の座をめざすが、借財はさらに膨らみ、家は県の所有に移る。この一部を氏は密かに他人に売り渡してしまい、ばれて失脚する。有為転変―。いま「平成の大作庭」で再現された時雨亭の後ろに回り込むと、「新長谷坂」と呼びたいくらいの閑雅の趣が漂っている。
(これより外周へ)
森をくりぬく 広坂(ひろさか)
道幅が広かったための命名というが、もともとは作事坂、安房殿坂といった(元禄・享保1688-1735ごろの記録による)。藩の建設部である作事所が現在の兼六園内にあり、その向かい側、県立美術館~県立歴史博物館一帯に藩老本多安房守邸があったことによる。安房殿坂の先には伊予殿坂があり、家老奥村伊予守の邸地があった。広さが必要だったわけがこの辺にあるのかもしれない。
坂の途中に、竹沢御殿35門のうち蓮池門とともに残る川口門跡の石段がある。門の上に馬場があり、馬も通ったため石段はその分広い。広坂交差点から見上げると、坂は森をくりぬいて造られたことがよくわかる。園側は手入れが行き届いた庭なのに対し、石浦神社側の右はウバユリなど昔の植生に覆われた自然味あふれる森。かつては崖から清水が湧き出て、炎暑にところてんを鬻ぐ(ひさぐ=売る)ものも現れた。
染物屋 紺屋坂(こんやざか)
古典落語や浪曲の「紺屋高尾」は「こうや」と読む。元禄6年(1693)の士帳にはこうや坂とある。いつまでも約束を守らない「こうやのあさって」のたとえもある。こうやの方が正しいと思うが、なまってしまった。染物屋のことである。「えんした」と略称される兼六園下交差点から桜木に沿って上る。秋、5本のキンモクセイが香る。
藩のお抱え紺屋「森本舘(たち)紺屋」があったことからそう呼ばれるようになったと伝わる。ところでこの「森本舘」という冠、舘は「やかた」を構えていたことから、と理解できるが、森本についてもうひとつ「森下」が史料に出てくるのがやっかいだ。どちらの「もりもと」もかつて河北郡に属し、河北潟に面した森本は金沢市になり、金沢市にあった森下は東山・森山に町名が変わった。その先祖が一向一揆の「賊魁」であったことを、舘紺屋をかわいがったという利家公は知っていたのか知らずにいたのか―。
もとの尻垂坂 兼六坂(けんろくざか)
家並みの間に卯辰山を垣間見る。尻垂(しりたれ)坂。昭和33年(1958)まではそう呼ばれていた。半世紀以上もたつから、貧乏くさいと敬遠された名前は消えてしまったか、と思っていたが、どっこい健在だった。『槌子(つちのこ)坂』『梅ヶ枝坂』の取材をしたときに「古老」の部類に入る人たちから何度か耳にした。もっともこの二つの坂、距離的、地形的には尻垂坂と親戚関係にある。
兼六園の北端を上る。藩政期の初め汁谷町があり、尻谷、修理谷などとも書かれ、水がしみ出て汁垂坂とも。険しい坂だったが、文政3年(1820)、園内に12代藩主斉広(なりなが)の隠居所として竹沢御殿を建てるため取り広め、百年後の大正8年(1919)には市内電車を通す工事で形勢一変する。電車は昭和40年(1965)にブレーキ故障から暴走、脱線・転覆し、2年後に廃止となる。
役人往来 上坂(かみさか)
上坂口料金所を出ると上坂。さらに兼六坂へと下り、兼六坂から小尻谷坂を下りると小将町である。小尻谷坂は新坂とも呼ばれ、上坂口の辺りに新坂柵門があった。坂ばかり出てくるが、それほどに人の出入りがあった斜面といえよう。文政期(1818-1830)の竹沢御屋敷総絵図(金沢市立玉川図書館蔵)には「役人往来」と書かれている。
竹沢御殿はいまの兼六園のほとんどを占める広大なものであった。文政5年(1822)、斉広はご機嫌で御殿に入るが、麻疹(はしか)で2年後に死去。その8年後には20年をかけた取り壊しが始まる。人と資材が行き交った一時期。その賑わいを忘れさすまいと、春、土手にツバキカンザクラが盛大に咲く。園内に戻り、曲水をたどる。山崎山の前に木橋。辰巳用水の吐き出し口もある。新緑のころの下郷さん一押しの場所だった。
百万石まつり 下坂(しもさか)
ツバキカンザクラと開花を競うカラミザクラが咲く。明治期の兼六園案内図(同図書館蔵)に下坂の名がある。明治43年(1910)、百間堀を埋め立てて開通した百間堀通りがこの坂を生んだといっていいだろう。坂の上が下坂口。上坂、紺屋坂、蓮池門通りの3本がここに集結する。一帯の景観の中心は、城の数少ない遺構の一つ、石川門だ。
付近が最もにぎわうのは、利家公入城を再現した百万石まつりの大名行列だろう。行列の出発点は以前は石川門だった。それが、JR金沢駅と城内の整備が進み、出発点は金沢駅になり石川門は終着点になった。石川門は搦め手(からめて)だから本来はここを大名行列が出入りすることはない。史実より実を取った格好だ。土手のツツジが満開となる6月、馬上の利家公は下坂口に立ち、まつりは最高潮に達する。
(下郷稔さんに捧ぐ)
兼六園十一坂マップ
<おもな参考文献>
『兼六園全史』兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所 1976
『兼六園歳時記』下郷稔 能登印刷出版部 1993
『兼六園の今昔-加賀百万石の庭』下郷稔 中日新聞社 1999
『石川新情報書府 兼六園図鑑(監修:下郷稔)』(公益財団法人)石川県産業創出支援機構
『兼六園かるた』兼六園研究会 1995