晴れの日を祝う気持ちを石垣に込めて - 嫁坂
嫁坂の坂標に記された由来には「加賀藩初期、坂の上に住んでいた藩の重臣、篠原出羽守が、娘を本庄主馬(鉄砲頭=筆者注)へ嫁がせる時つけた坂なのでこの名がついた」とある。娘を思う親心がうかがえ、温かい気持ちがこみ上げてくる。この坂についてさらに思いを巡らすにはまず篠原出羽守について知らなければならない。
前田家三代にわたって仕えた石垣普請のエキスパート
出羽守(篠原一孝・1561~1616)は、若い頃から前田利家に仕え、その後利長、利常と三代にわたって仕えた。数多くの戦いで重要な任務を任され、三代通じて藩の信頼が厚かった。利家が大坂(大阪)で亡くなった時には、その亡骸を金沢に戻すという重要な任務も果たした。二代利長とは同い年で、利長が手こずっていた金沢城の石垣を代わって完成させた。高度な石垣普請技術を実証してみせたことで、後に外惣構堀、百間堀、白鳥路の構築も任された、まさに石垣普請のエキスパートである。
城や外惣構堀など今に残る石垣の凛々しい姿を見るにつけ、美的感覚に優れていたことが容易に想像できる。こんな逸話がある。金沢城河北門の石垣普請の際、高山右近が築いた石垣を「城の大手の門としては石が小さく見苦しい」として大石に変更させたという。ともに築城や惣構の構築を指揮した九歳年上の右近に対して臆せず意見を言いそれを通す。エキスパートとしての仕事へのこだわりを垣間見るエピソードだ。
高山右近との対立と心のつながり
金沢城の惣構堀は、内惣構は高山右近、外惣構は出羽守が構築を指揮した。そんな二人だが、意見が合わないことも多かったという。筆頭家老太田但馬が利長の命により誅殺された時、出羽守は但馬派であったのに対し、右近は対立していた家老横山大膳派であった。出羽守は命の危険を察して巧く立ちまわったと伝わる。家中の対立抗争もあって、惣構構築も“手を取り合い、情報共有しながら”という訳ではなかったであろうことが想像できる。
キリシタン禁教令が加賀に及び高山右近が追放される際、金沢から右近を護送したのは出羽守だった。罪人用の籠輿(かごこし)に乗せられた右近を見て「彼をこのようなものに乗せてはいけない。途中で逃げたり刺客に襲われることがあっても、わたしが切腹すれば済むことだ」とかばい、さらに前田家に忠実に仕えてきた右近に大小の刀を差し向けた。しかし、右近は「厚意はありがたいが、殿や若殿の意に反する」といい辞退した。仲違いすることはあっても、ともに存在を認め合う関係だったのだろう。
出羽守屋敷から主馬屋敷までの予想ルート
出羽守屋敷は、いまの出羽町、石川県立歴史博物館あたりにあった。主馬屋敷がいまの菊川1・2丁目にあったことは、かつてこの辺が「主馬殿町」と呼ばれていたことから分かる。上の図は、延宝金沢図に出羽守屋敷から主馬屋敷までの予想ルートをなぞってみたものだ。この時は後にすぐ横にできる大乗寺坂はまだなく、お城の前を通る以外は嫁入り道具を運ぶルートがなかった。それでは…と坂道を切り拓くことになったのだろう。距離にしておよそ1.4km。道行く花嫁を多くの町人が見守ったに違いない。
今も残る石垣の名残り
嫁坂には野面積みで積まれた石垣が今も残っている。野面積みは出羽守が嫁坂を切り拓いた当時の石垣構築方法であることから、坂ができた時からのものだと考えられる。石垣普請のエキスパートは、お城の石垣構築に使った最新技術を惜しみなくこの坂に注いだのだ。
嫁坂は車の通ることのできない緑に囲まれた細い石段。父が娘に贈った祝福の石垣を眺め、その心を感じながらゆっくりとくだるのがこの坂道の楽しみ方である。
<おもな参考文献>
- 金澤古蹟志
- 名君 前田利長(中経出版)
- 延宝金沢図